■はじめに
私たちはピンチを助けられたときに「誰々に救われた」と安堵し喜びます。この時、ピンチの度合いが大きければ大きいほど安堵や喜び、あるいは助けてくれた人への感謝が大きくなります。教会でよく言われる「救いの喜びとか救いの感謝」もこれと同じで、罪がもたらす滅びというピンチを助けられたから喜びや感謝が生まれます。見方を変えれば、私たちがどれほどのピンチになっていたのかを知らなければ、安心も喜びも感謝も湧いて来ません。今日は、私たちがどんなピンチに直面していたのかを聖書に聞きます。
■本論
Ⅰ.神のことばに背を向けた者は世の終わりにおいて取り除かれる(12:25-27)
この手紙の著者はキリストを信じた者は「神の怒りに近づいていないこと」を語り、その上で「天の御国に近づいていること」を語りました。両者を対比させて「近づいていること」のすばらしさを強調し、迫害の中でも忍耐しながらゴールを目指すように読者を励ますのです。ただし、ゴールである神の怒りも天の御国も選ぶのは人であり、選んだ本人が結果も引き受けるのです。著者はそのことを解説します。
著者はまず、「語っておられる方を拒まないように気をつけなさい。(25節)」と命じます。25節の中ほどに「警告」ということばがあります。これは「神からの警告」を意味し、「御告げ」とも訳されます。本来であれば神は警告を与える必要はありません。なぜなら、不安と恐れの人生を生きるのも、永遠の滅びに向かうのも、人が神に背いて罪に従うからです。けれども、神はそのような人をあわれむがゆえに、警告を与え正しい生き方に戻らせようとするのです。だから、語っておられる神を拒むのは、人を大事にしたい神の思いを踏みにじることになるから、拒んではいけないのです。
にもかかわらず、イスラエルの民はモーセや預言者など「地上において、警告を与える方」を拒みました。「地上において、警告を与える方」は神の代理人ですので、彼らを拒むのは彼らを派遣した神を拒むことになるから処罰を受けます。イスラエルの歴史はまさに拒否と処罰の繰り返しですから、読者のユダヤ人はそのことをよくわかっています。
ただし、イスラエルの民が拒んだのはあくまでも代理人です。一方、「天から警告を与える方」とあるように、天からの警告を直接与えるイエスを拒む者は神そのものを拒みますので、代理人の時よりもなおさら大きい処罰を受けます。信仰ゆえの迫害を受けている読者はまさにイエスのことば、すなわち福音を拒もうとしているから、「拒まないように気をつけなさい。」と命じられるのです。
著者はさらに「なおのこと」と言われる処罰を語ります。26節「あのとき」とはシナイ山で神がモーセに律法を与えた時であり、その際、神の声が山を震わせました。これは神がこの地上に介入することを意味しています。ここで著者はハガイ書のことばを引用します(ハガイ2:6,21)。これは、背きによって滅んだ神の国イスラエルを再び立て上げるために、神が天と地を揺り動かすという預言です。つまり、神が戦争や自然現象といった形で地上に介入し他民族を滅ぼして神の国を再建するのです。
それゆえ著者はハガイのことばを世の終わりに適用しました(27節)。イエスも世の終わりについて語っているように、神はもう一度この世を揺り動かします(マタイ24:29)。シナイ山での出来事をはじめこれまでの介入は警告でした。しかし、今回は「造られたものが取り除かれること」とあるように、この世を終わらせるための揺り動かしです。ただし、イエスが弟子たちに語ったように、クリスチャンが住む真(まこと)の神の国である天の御国はすでに用意されていて、こちらは揺り動かされずに残ります。
当然、人も神によって造られたものですので取り除かれます。けれどもキリストを救い主と信じる者、25節のことばで言うならば「警告を与える方を受け入れた者」は天の御国に登録されているので(へブル12:23)、キリストと同じように新しいからだで御国に入ります。反対に拒んだ者は取り除かれます。これが永遠の滅びという処罰です。
キリストのことばを拒み、キリストを救い主と信じない者は天に登録されていないので、例外なく取り除かれます。どれほど高い地位にあっても、どれほど財産があっても、どれほどこの世を支配しても、この世と一緒に取り除かれます。でもその結末は自らが招いたのです。旧約聖書すなわちイスラエルの歴史を通して神は警告し、さらに新約聖書すなわちイエスのことばを通して神は警告したからです。迫害を逃れるためにキリストを捨てた者、あるいはエサウのように欲望を満たすために神をないがしろにする者は、想像できないほど恐ろしい結末が待っているのです。
Ⅱ.キリストを信じた者は揺り動かされない天の御国に入れる(12:28-29)
続けて著者は揺り動かされないものについて語ります。 著者は、自分も含めてキリストを信じる読者は揺り動かされない御国を受けると言います(28節)。すでに語っているように「シオンの山、生ける神の都である天上のエルサレム(へブル12:22)」に入るのです。それゆえ著者は「私たちは~しようではありませんか。」と2つの勧めをしています。
(1)私たちは感謝しようではありませんか
感謝の相手はもちろん揺り動かした神です。本来人は取り除かれることだけが定められています。けれども「新しい契約の仲介者イエス、注ぎかけられたイエスの血です。(へブル12:24)」とあるように、イエスによって天の御国を受ける者とされました。明らかなように、天の御国を受ける手段は神が用意したことであり、人の知恵や知識あるいは善行といった人の功績ではありません。このことをパウロはこう言っています。「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ2:8-9)」だから神に感謝するのです。
(2)神に喜ばれる礼拝をささげようではありませんか
「礼拝」は「仕える」も意味しますから、クリスチャンは神のみ、すなわち神のことばに仕えるのです。これが感謝を行いに出すということです。ただし、「神に喜ばれる礼拝」とあるように、神に感謝をささげるのですから、神のお気持ちを最優先にしなければなりません。神に仕えると言いながら、自分勝手にするのは神への感謝とは言えません。それで著者は「神に喜ばれる礼拝」のための心構えとして「敬虔と恐れをもって」と勧めます。
「敬虔」は用心とか慎重とも訳されますから、自分が神の前に正しくあるかどうかを注意深く吟味しながら仕えます。また「恐れ」は畏敬を意味しますから、神の絶対なる権威を認めながら仕えます。一言でいうなら、自分のことを脇に置いて神だけに心を向ける、ということです。
そして「神への敬虔と恐れ」をもたらす事実が29節です。神は聖ではないものを決してそのままにぜず、必ず完全に滅ぼします。たとえキリストを信じ、神から罪を赦され、聖と認められても、平和を壊したり悪に走るのを神は良しとしません。私たちは滅びという処罰を免れただけでなく、天の御国という永遠に残る所をすでに受け取っています。それゆえそれをくださったお方に感謝するから、神の喜びのために生きるのが私たちの人生です。
■おわりに
本来、私たちは焼き尽くされる者、取り除かれる側にありました。天の御国どころか焼き尽くされない手だてさえ全く持っていませんでした。どれほど人生を楽しんでいても、どれほど思い通りの人生を歩んでいても、絶体絶命のピンチに直面していたのです。しかし、神はそのような人をかわいそうに思い、神の方から助かる道を用意してくださいました。イスラエルの歴史を通して「従えば祝福、背けばのろい」の原則を示し、時至って我が子イエスをいけにえとし、死からよみがえらせて仲介者としました。それで私たちは「イエスを救い主と信じる信仰」によって天の御国に至る道を歩んでいます。救いにかかわる一切が神のあわれみだから、私たちは神のみに感謝し神のみに仕えるのです。
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