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木村太

8月22日「わたしは平安を残します」(ヨハネの福音書14章25-31節

■はじめに

 先日発行された「三笠市議会だより」によれば、新型コロナウィルスのワクチン接種は8月末で終了し、接種対象者(12歳以上)の約8割を見込んでいます。ですので、市民に限って言えば発症や重症化については安心できそうです。ただ、ウィルスの媒介やデルタ株に対してはワクチン接種だけで防げないので、まだまだ予防対策が必要です。このように、私たちの安心や安全は証拠や実績からきていることがわかります。では、イエスが約束している平安はどのようにもたらされ、どうして平安となるのでしょうか。今日は、イエスの与える平安について聖書に聞きます。


Ⅰ.イエスは「聖霊がイエスのすべてを確信させること」「聖霊を通して平安を残すこと」を約束した(14:25-28)

 イエスは、真理の御霊とも呼ばれるもう一人の助け主とよみがえった後の再会を弟子たちに約束しました。さらにイエスは助け主の役割を語ります(25-26節)。


 イエスは「教え、戒め、予言」のように、これからの弟子たちに必要なことがらをすべて語りました。しかも、この直後に彼らは全員イエスを見捨てるのを承知の上ですから、まことに弟子たちを愛し、なすべきことを果たしているのです。


 一方、弟子たちはイエスのことばを聞いてはいますが単なる知識に留まっていて、理解や信頼にはなっていません。なぜなら、聖霊がイエスのことばを教えて理解させるからです。そして、後々の出来事においてイエスのことばを思い起こし「イエスのことばは本当だ」と信頼させるからです。「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊」とあるように、弟子たちのためにイエスが最善をなしてくださるのです。


 ここでイエスは聖霊に加えてもう一つの約束をします(27節)。イエスは弟子たちを孤児として残さない上に、ご自身の平安を残します。十字架から三日目によみがえって彼らに姿を現すだけでなく、自分が一緒にいなくても彼らに平安を与えるのです。本当に弟子たちを大切にしています。


 イエスの与える平安はこの世の平安とは違います。冒頭に申しましたように、この世の平安は頼れる物や人があるかどうか、あるいは見通しがつくかどうかなど、自分の置かれた状況や結果に左右されます。あるいは「へっちゃら/気にしない」のように物事を素通りさせたり無感覚になるのでもありません。イエスはゲツセマネの園で苦しみもだえて「この杯を取りのけてください」と神に祈りました。でもその後すぐに「みこころが行われるように」と祈っています。つまりイエスの平安は、心が騒いでもそれが心を支配し続けず、落ち着いて冷静にさせるのです。弟子たちも様々な出来事に直面したとき動揺しました。けれども「イエスが一緒にいること」で落ち着きました。これからは、目に見える姿でイエスが一緒にいなくても平安があるのです。


なぜイエスが一緒でなくても平安なのでしょうか。それは、もう一人の助け主である聖霊が遣わされるからです。聖霊の働きによって弟子たちは、目には見えなくてもイエスは一緒だという平安を持ちます。だから、常識からすれば平安などありえない中でも、心を騒がせず、びくびくしないでいられるのです。モーセも離別のことばで「【主】ご自身があなたに先立って進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。(申命記31:8)」と見えないけれども神がともにいる平安を告げています。


 それでイエスは「心騒がせたりひるんだりしないで、こうありなさい」と言います(28節)。イエスは十字架で死に、3日目によみがえり弟子たちの前に現れ、そして父のおられる天にもどります。弟子たちひいてはイエスを信じる者の住まいを準備するためです。イエスはご自身が天に戻るのを悲しんだり不安になるのではなく、むしろ喜びにしなさいと勧めます。なぜならイエスを遣わした神のもとに戻るのは、なすべきことを果たし本来いるべき場所に戻るからです。言い換えれば、人を滅びから救う道の完成と、聖霊の助けによる弟子たちの伝道の開始を意味します。いわば神のご計画において次の段階に入るから喜ばしいのです。


 イエスはご自身を愛する者に聖霊と平安を約束しています。ですから現代の私たちにも約束されています。聖霊は真理を理解させ、イエスのことばすなわち聖書は本当だという確信を与え、ますます信仰を深めます。そしてイエスがいつもともにいるという平安が与えられています。ただし、聖書で明らかなように、神やイエスの与える平安は私たちが想定する方法や時期とは違うことがあります。なぜなら、神が最善をなしてくださるからです。先週お配りした「病者の祈り」はそのことを証ししています。「私たちを愛し大切にしているイエスがともにいて最善をなしてくださる」ここに私たちの安らぎがあります。


Ⅱ.イエスは十字架を前にして、弟子たちに必要なことがらをすべて伝えた (14:29-31)

 さらにイエスは十字架が迫っていることを伝えます(29節)。「それが起こる」とは、十字架刑をはじめとるするイエスに起きる出来事を指します。それらの出来事を通して、弟子たちはイエスのことばの真実を確信してゆきます。使徒の働きを見ると、彼らはイエスに起きた出来事を証拠として「救い主イエス」を伝えています。見方を変えれば、イエスは「救い主イエスを伝える」という彼らの使命を暗に伝えているのです。


 そしてヨハネが「最後まで愛された(ヨハネ13:1)」と書いたように、イエスは彼らと一緒にいる間にご自身が果たすべきことを成し遂げます(30-31節)。この世の支配者とは、この世すなわち罪に縛られている敵対者を言います。この食事の直後、イエスは祭司を代表とする宗教指導者たちに逮捕されます。ですから弟子たちと一緒にいる時間はわずかなのです。ただし、弟子たちに言い残したことは一つもありません。彼らがイエスを伝える者として必要なことがらを全部語ったのです。


 ここでイエスは逮捕され十字架かけられるのに「この世を支配する者はわたしに対して何もすることができない。」と言います。これからイエスの身に起きる出来事を見れば、敵対者の企み通りイエスは殺されたと受け取ります。けれども真実は旧約聖書に記されているメシアの預言がその通りになるのです。イザヤ書53章はその典型です。つまり、人の目には敵対者の思い通りに事が運んでいるように見えるけれども、神からすれば「イエスによる救い」というご自身の計画がその通りになっているのです。だから、どんな敵対者であっても神の計画を阻止できないから「何もすることができない」とイエスは言うのです。


 むしろ「わたしが父を愛していて、父が命じられたとおりに行っていることを、世が知るためです。」とあるように、イエスに起きる出来事は人々に真実を知らせることになります。事実、百人隊長などは一連の出来事を見て「この方は本当に神の子であった」と言っています(マタイ27:54)。イエスの逮捕や十字架は弟子たちにとって恐怖や不安となりますが、それは悪ではなくて神のみこころを果たす必要なことがらなのです。


 今、イエスに対する民衆のメシア期待は最高潮に達しています。宗教指導者たちはイエスを殺す企みを着々と進めています。ユダはイエスを金で売る行動に入りました。弟子たちには助け主の予告や必要な教えをすべて語りました。「人の罪を赦すためにイエスが身代わりとなって神の怒りを受ける」という神のみこころを果たすための準備は整いました。それでイエスは「立ちなさい。さあ、ここから行くのです。」と声をかけるのです。弟子たちには大変な困難が待ち受けていますが、イエスの中では「あなたがただけでも聖霊がいるから大丈夫」という確信があるのです。だから十字架に向かってゆくのです。


 弟子たちには助け主である聖霊、イエスの平安、よみがえったイエスとの再会による真実の確信これらが与えられます。それと同じように現代の私たちにも聖霊と平安が与えられています。そして、よみがえったイエスとお会いできなくても、イエスについての真実が記されている聖書が与えられています。さらには弟子たちによって救い主が伝えられた結果、あらゆるところにイエスを信じる仲間がいます。ですから「立ちなさい。さあ、ここから行くのです。」のとおり、新しい日々に出て行けるのです。


■おわりに

 イエスはご自身の平安を私たちに約束しています。その際、「どれくらい喜ばれることをしたか/悪いことをしていないか」といった功績を条件にしていません。だから誰でも聖霊を通してイエスから平安を受け取れます。ただし、弟子に対して「わたしはあなたがたに平安を残します。」と約束したように、イエスの平安はイエスを愛する者限定です。


 ですから愛するイエスを信じなければ平安はありません。詩篇の詩人が神を岩、盾、やぐら、万軍の主と信じて安心するのと同じです。イエスの全知、全能、正しさ、聖さ、そしてご自身を犠牲にするほどの愛、こういったイエスのすべてを信頼するからイエスが平安となるのです。


 さらにイエスを愛するのですからイエスのことばを守る生き方に平安があります。イエスのことばを守るとは、イエスが言ったように神と人を大切にすることです。当然、神が愛した自分の心身を慈しむことも含まれます。私たちは不安や恐れを払拭するために生きるのではなく、神を畏れ他者を慈しむ人生を歩みましょう。そこに平安が与えられます。

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