私たちは困ったときやつらいときに「神様助けてください/何とかしてください」と祈ります。その時、「神にとって不可能なことは一つもない(ルカ1:37)」と疑いなく祈っているでしょうか。私たちは抱えている問題がとてつもなく大きい状況では、「祈ったって何にもならない」と神の力を小さく見てしまう弱さがあります。そこで、今日は、詩篇28篇から、神を完全に信頼する祈りが私たちの心を不安から平安へ変えることを見てゆきましょう。
Ⅰ.詩人は嘆きによって素直に自分の気持ちを主に訴える(28:1-2)
ダビデは主を岩にたとえ、ゆるぎなく守ってくださるお方と信じて口を開きます(1-2節)。その主に向かってダビデは耳を閉ざさないで、沈黙しないでくださいと嘆き願っています。「耳を閉ざさない、沈黙しない」とは、訴えのことばを主が確かに聞いて、それに主が答える様を言います。さらに、「私の手をあなたの聖所の奥に向けて上げるとき」とあるように、聖所の奥すなわち主の臨在される至聖所に向かって手を差し伸ばしています。これは「私の願いを聞いてください」という強烈な訴えです。ダビデはことばだけではなく、体全体を使って主なる神に必死に訴えているのです。
またダビデは「私が穴に下る者どもと同じにされないように。」と口にしています。「穴に下る者」つまり死人のように扱わないでくださいという訴えです。イスラエルの民にとって死は神との断絶であり絶望を意味します。ダビデは、「私を死人のように放っておかないでください。生きている私の訴えを何とかして聞いてください。」と嘆いているのです。
私たちもそうですが、平安だったり喜んでいるときには、まず主への感謝とか賛美から祈りが始まります。しかし、感謝のことばもほめたたえることばもなく、いきなり訴えがあるのですから、いかに緊急で危機的な状況にあるのかがわかります。このダビデのように、私たちも「何とかして欲しい/ここから抜け出させて欲しい」というときには、祈りの最初から嘆いていいのです。「主よ感謝します/あなたをほめたたえます」といった取り繕いとか形式はなくても悪ではありません。キリストもゲツセマネの園で喜びあふれて「父よほめたたえます」と祈り始めませんでした。これから受ける十字架を前にして、悲しみもだえながら「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。(マタイ26:39)」とひれ伏して祈りました。使徒ペテロもこう言っています。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」自分の心をそのまま注ぎ出す祈りを父なる神は聞いてくださっています。
Ⅱ.詩人は主を信頼して今の状況からの脱出を訴える(28:3-5)
さて、ダビデが主に嘆く理由が3-4節にあります。ダビデはこれまで主に生き方を求め、主に従い、平和を築いて来ました。けれども今は祝福ではなく危機的状況にあります。それでダビデは「従えば祝福を、背けばのろいをという約束からすれば、まるで主は自分を悪者として扱っているんではないか」と思っているのです。また4節は「悪者に罰を与えてください」という訴えです。ここにも祝福とのろいの約束、すなわち「主に従っている私に苦しみを与えるのではなく、私を苦しめている悪者に災いを下してください」と訴えているのです。
一方で、5節「彼らは【主】のなさることも御手のわざをも悟らないので主は彼らを打ち壊し建て直すことはされません。」と語っています。ダビデは主の正しさを疑ってはいません。むしろ主は正しいお方だから「悪人を打ち壊し、立て直さない」という「祝福とのろい」の約束を信じているのです。
私たちも自然災害にあったとき、いわれのない事件・事故に巻き込まれたとき、度重なる病に冒されたときなど「キリストを信じているのにどうしてこんな目に遭うの」と嘆きます。あるいは「私は何もしていないのに、どうしてこんなに苦しまなければならないの」と嘆きます。突然襲う苦痛に遭うとき、私たちは主に向かって激しく嘆き、助けを求めます。「従えば祝福を背けばのろいをという約束ではないのですか」と訴えることもあるでしょう。
ただ、大切なのはダビデのように「完全に正しい神は必ず岩のように私を守ってくださり、助けてくださるお方だ」という信頼です。ことばで体でどれほど大声を上げて嘆き、訴えても良いのです。ただそこに「私は主を信じます」という100%疑いのない信頼があればそれで良いのです。
Ⅲ.詩人は祈りの中ですでに助けられたことを確信し平安を得た(28:6-9)
ところが、ダビデのことばが一転します(6-7節)。ダビデは「ほむべきかな。主。」そして「私の心は喜び躍り私は歌をもって主に感謝しよう。」と心から主をほめたたえています。さらに8節「【主】は彼らの力。」、9節では「どうか、御民を救ってください。あなたのものである民を祝福してください。」と自分の民のためにとりなしの祈りを捧げています。つまり、自分のことはもう解決済みなのです。つい直前まで「私の願いの声を聞いてください。」と必死に嘆いていたのに、突如として主をほめたたえるばかりか、自分のことではなく民のことを祈っています。
ダビデは祈りの中で変えられました。彼は6節「主は私の願いの声を聞かれた。」さらに7節「私の心は主に拠り頼み私は助けられた。」と語っています。まだ願っただけで自分の置かれている状況は何一つ変わりがないのに、「主は願いを聞いた」「私は助けられた」と確信しました。主がこの祈りを聞いて、自分を助けてくださることを確信したから、ダビデは不安と恐れから安らぎに変えられたのです。キリストもこう語りました。「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。(ヨハネ14:27)」この世の平安は結果に左右されます。思い通りになったかどうかとか、悩みの原因がなくなったとかで、平安が左右されます。しかし、主なる神は今の状況がどうであろうとも、結果がどうであろうとも、平安を与えてくださいます。まさに神は平安という不思議なわざを私たちの心に働かせるのです。
では、ダビデはどうして祈りの中で変えられたのでしょうか。鍵は主への呼びかけ方にあります。ダビデは主のことを「わが岩、私の力、私の盾、砦」と呼んでいます。このたとえ方に主への信頼が明らかにされています。主は岩や砦ように強く、どんな敵からも守ってくださいます。また、主の正しさは岩のように決して揺るがず、主の前に正しい者を主は正しいと認めて祝福します。このことをダビデは経験によって知っていました。だから、主に願っているだけで、現実は変わっていなくても「もう大丈夫だ」となるのです。人の目から見れば何一つ変わっていなくても、それよりもむしろ悪くなっているとしても「神は平安をくださる」と確信できるのです。私たちにとって最も大事なのは「わが岩よ」という信仰が平安をもたらすということです。
この世に生きる中で私たちには困難や試練が必ずあります。大きな悲しみや苦しみの中で、私たちはダビデのように、主に向かって激しく嘆き、叫び、訴えるでしょう。一方で主に祈ったところでどうにもならないと、主を疑う弱さもあります。主によって助かる確信を持っていても、目の前に迫る不安や恐れに引き込まれてしまいます。しかし、私たちにも「岩、盾、砦、力」なる主がおられます。パウロもこう語っています。「しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です(ローマ8:37)」。私たちを愛してくださるすべてに勝利したキリストがいつも自分のそばにいてくださり、自分の中にいて力を与えてくださいます。そして人を大切にしてくださる神が私を包んでいます。岩なる主を信じて祈るとき、私たちは嘆きから安らぎに変わってゆくのです。
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