■はじめに
一人旅は他の人に気を使わなくていいので自分の思い通りに動けます。しかし、治安の悪い土地を旅するときや、穴場に行くためには現地に詳しいガイドが必要です。それと同じように、私たちの人生も一人旅であると同時に、先のわからない毎日を生きています。ただし、神が一緒にいてくださるのを知っているか知らないかで、私たちの気持ちはずいぶん違ってきます。そこで今回は「神と一緒の人生」と題して、「神様が一緒にいるから何があっても大丈夫」という人生を歩むための方法を2回に分けて宣教します。一回目の今日は「神のそばに身を置く」ことを詩篇を中心に見てゆきます。
■本論
Ⅰ.詩篇の著者は神を様々なものでたとえている(岩、隠れ場、盾、やぐら、とりで、御翼の陰、万軍の主、羊飼い...)
聖書には「自分と神との関係」をたとえを使って表している書があります。それが詩篇です。詩篇の著者は「神が自分にとってどんな存在であるのか」を様々なものでたとえています。例えば、詩篇18篇ではこのようにたとえられています。
「彼は言った。わが力なる【主】よ。私はあなたを慕います。【主】はわが巌 わが砦 わが救い主 身を避けるわが岩 わが神。わが盾 わが救いの角 わがやぐら。(18:1-2)」
「私のわざわいの日に彼らは立ちはだかりました。けれども【主】は私の支えとなられました。(18:18)」
詩人がたとえた「もの」にはこのような意味があります。
①巌、岩…揺るがなく壊れない存在。陰に隠れれば敵から守られる
②砦…敵の攻撃から中にいる人々を守るための堅牢な建築物
③角…敵との戦いに用いられる。聖書では力の象徴
④盾、やぐら…敵の攻撃から身を守る
⑤支え…心が折れないように支えている
これらの他にも「避け所」「羊飼い」「御翼の陰」などがあります。
「主は私の恵み私の砦 私のやぐら 私の救い主 私の盾 私の避け所 私の民を私に服させる方。(144:2)」
・避け所…敵やわざわいから避難するための安全な場所
「【主】は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。(23:1)」
・羊飼い…養いと安全、正しい場所へ導く
「...私のたましいはあなたに身を避けていますから。私は滅びが過ぎ去るまで御翼の陰に身を避けます。(57:1)」
・御翼の陰…親鳥がひなを翼の下でかくまうように主が守ってくださる。
ここで大事なのはこれらたとえが「神の働き・わざを現している」ということです。言い換えれば、自分にとって神はどんな存在なのかを告白しているのです。詩篇18:4-6を見ると、詩人は絶体絶命の中で神に助けを叫んでいます。おそらく、圧倒的に強い敵から攻められていたのでしょう。けれども、彼はその戦いに勝利しました。それで、戦いの様子から神を岩とか盾、支えといった「もの」でたとえたのです。
このように、神とともに生きるためには、自分に起きる出来事に神の関わりを見出すことが何よりも大切です。現代社会はものごとの仕組み、言い換えれば原因と結果をはっきりさせることが求められるので、「神」抜きで考える風潮です。けれども、たとえ「なぜ神はこうなさったのか」という理由がわからなくても、私たちは「神が関わっている」という視点を失ってはならないのです。
Ⅱ.神とともに生きるためには、神のそばに身を置かなければならない
さて、一つ一つのたとえを見るとある特徴があります。それは、神と人との距離が非常に近い、ということです。例えば、「岩、盾、砦、やぐら、支え、御翼、避け所」といったものは、ごく近く、あるいは密着しなければ、自分の身を守ることはできません。同じように、羊飼いの場合も羊飼いの近くにいなければついて行くことはできないし、敵から身を守れません。
つまり、「神とともに生きるためには」神のそばにいつもいることが必要です。抽象的な表現なのですが、「神のそばにいる」という距離感が大事なのです。テレビ番組で秘境や紛争地帯のドキュメンタリーでは、取材クルーはガイドのそばにいて指示を受けています。そうすれば危険を回避できるし、もし何かあってもガイドが適切に対処できます。
ですから、私たちが安心を得たり、安全な方向へ導きを得るためには、岩なる神とか羊飼いなる神に身を寄せなければなりません。神から遠く離れたり、あるいは神との間に関係を遮断する物を置いてしまうと神の守りや導きを見失ったり、神のみわざを見ることができません。繰り返しますが、「神のそばにいる」という距離感をいつも保ちましょう。
Ⅲ.神がそばにいることを信じ、神の働きに気づけば、神のそばに身を置くことになる
もし、神が地上にいたときのイエスのように見聞きできて触れる存在だったら、そばにいるかいないかを簡単にわかるし、離れていれば動いてそばに行くことができます。けれども神は霊なるお方ですから目に見えません。では私たちはどうすればよいのでしょうか。
ここで重要な点は「神は私たちのそばにすでにいる」という事実です。なぜなら神やイエスがそう言っているからです。神は十戒の一番目にこう言いました。「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。(出エジプト20:3)」人と神とは面と向きあっているので、その間に他の神を置くと神との関係を遮断することになります。それほど神は近くにいるのです。
またイエスはよみがえった後、天に戻るに当たって弟子たちにこう言いました。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。(マタイ28:20)」ここでの「ともに」は「そば/一緒」のように、すぐ隣にいる距離感を意味します。つまり、神やイエスはいつも自分のすぐそばにいるのです。私たちがそのことに気づかなかったり、見失ったりしているから、「神は遠い/自分は神のそばにいない」となってしまうのです。
では、どうすれば神やイエスがいつもそばにいるとわかるのでしょうか。ここでは、2つのことがらをお勧めします。
①「自分がどこにいても、どんな状況でも、いつも神はそばにいる」その事実を認めて信じることです。「いつも、あなたがたとともにいます。」ということばを信じるなら、それが実際に起きているのを認めましょう。神もイエスも聖霊も私たちの目には見えませんが、間違いなくそばにいます。
②「神が私に力あるわざをなしている」これに気づくことです。私たちは予想外の出来事や、あり得ないと考えていたことが起きると、そこに神が働いたと気づきます。一方、毎日や毎回あること(日曜礼拝など)、あるいは当然起こること(四季など)には、神の働きを見失いがちです。さらには自分の願い通りにならなかったときも、神との距離感を遠く感じるものです。当然あるべきことが実際にあるというのも神の働きですし、思い通りにならないのも神のみこころがあるからなのです。
それゆえ、先ほど申しましたように「神が関わっている」という視点を持った上で、どんなに小さなことでもいいから「今、神は自分のために何をなしているのか」を探し求めるのです。例えば、辛い状況にあっても祈っている内に心が落ち着いたとか、心がほわっとした気持ちになった時には「神が翼で覆って、安心を与えてくれた」と受け取るのです。厳しい状況を乗り越えられた時には「羊飼いなる神が私を守り、安心な方向に導いてくれた」と受け取るのです。あるいは、人を憎しんだときに自分の罪深さに気づいた際には「神が正しい方向に導こうとした」と受け取るのです。
神がそばにいると信じ、神の働きに気づくこと、これには意志と習慣が求められます。ある意味訓練とも言えます。ただし、うれしいことに、両者は互いに高め合う作用があります。神の働きに気づけば、神がそばにいるとより強く信じるようになり、そうすればさらに神の働きに気づくようになります。これこそが信仰の成長であり、何にも揺るがない信仰の人生に向かわせます。
■おわりに
詩人は、神が自分に対してどんなみわざをなしているのかをわかって、神を岩とか盾とか羊飼いなどにたとえています。私たちも神への感性を敏感にして世の中の出来事を見たとき、詩人のように神を様々なものでたとえることができます。
そんな間柄によって、何にも代え難い平安に私たちは満たされます(ヨハネ14:27)。同時に「神がいるから何とかなる。失敗しても次の道が必ずある」という希望が与えられます。神はあなたのそばにいるのです。神のみわざに気づいて、神とともにこの地上を歩みましょう。
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