・はじめに
私たちの教会では主日の礼拝を前奏から始めています。この時間、私たちは神をたたえる調べの中で自分を省み、そしてこの自分にどれほど神は大きな恵みを下さったのかを思い起します。それによって礼拝の中で罪を告白し悔い改めたり、感謝と喜びから賛美がわき上がったり、あるいは神のことばに耳を傾けることができるのです。前奏は礼拝を盛り上げるためのオープニング曲ではなく、私たちが礼拝する者にふさわしくなるためのものと言えます。そこで今日は、神が求める礼拝について聖書に聞きます。
Ⅰ.サマリアの女は自分の全てをイエスが見抜いていたので、イエスを信頼しまことの礼拝を尋ねた(4:16-20)
イエスはサマリアの女に決して渇くことのない生ける水のことを語りました。しかし、彼女は水についての真実を分からない上に、自分の渇きにも気づいていませんでした。言葉を加えるならば彼女は今目の前にいる救い主であるイエスの必要に目が開かれていなかったのです。そこでイエスは意外なことばを掛けます(16節)。
イエスの指示は生ける水や永遠のいのちに全く関係のないことがらです。しかも彼女にとって一番触れて欲しくない事実でした。なぜならその回答こそが人目を避けて水を汲みに行く動機だからです。けれども女は答えます(17-18節)。彼女は今の状況を正直に答えましたが、イエスは彼女の語っていない事実をはっきりと口にしました。イエスは見抜いていたのです。サマリアの女はこれまで5回離婚し、そして現在は男性と同棲しています。当時の風潮からすれば、ふしだらとか姦淫の女と見られて、汚れた者・罪ある者とさげすまれたでしょう。人目を避けたいのも、人に会えば間違いなくそのことに触れて辛くなるからです。ところがイエスは女を叱責せず、彼女が本当のことを答えたので受け入れています。もし、パリサイ人だったらきっと責めているはずです。
それで女はこう言いました(19-20節)。彼女は、人目をはばかっているような自分でもイエスが受け入れたので、その安心と信頼から「主よ」と呼びました。さらにはイエスを預言者と認めました。預言者は文字通り神のことばを預かる者ですが、同時に人知の及ばない奇蹟を行える者でもあります。彼らがよく知っているエリヤは死んだ人をよみがえらせたり、将来のことを予見しました。それで、イエスが全く口にしていない事実を知っていたので預言者と見たのです。ただし、この言葉からわかるように、彼女はまだイエスを救い主メシアと気づいていません。神から特別な力を与えられた人という認識に留まっています。
彼女はイエスが預言者であるなら、「神を正しく礼拝する」という論争に答えを出してくれると期待しました。この当時サマリア人はゲリジム山の神殿で礼拝していました。それに対してユダヤ人はエルサレム神殿での礼拝が正統であると主張し、両者には長年にわたって議論がありました。彼女が正統な礼拝を口に出したのは、彼女にとって礼拝が切実な問題となったからです。サマリアの女は、「神の前に出て罪を赦してもらい平安を受ける」その必要に気づいたのです。一説には、自分の罪を指摘されたくないので話をずらした、という解釈もあります。しかしイエスは礼拝の話題を打ち切って罪の話に戻していません。ですから、彼女が罪を赦してもらうための正統な礼拝を心から求めたと言えるのです。
サマリアの女に限らず、神はすべての人についてすべてのことをご存じです。それなのに、私たちの最も隠しておきたい部分、最も避けたい部分を神は問いかけてきます。でもそれはイエスが女のことばを受け入れたように、私たちが神の前にすべてを明らかにするのを神が待っているからなのです。見方を変えれば、偽りのない告白は神を信頼している証拠でもあります。そして女が井戸の水ではなく礼拝に向きを変えたように、神への告白が私たちを渇きに気づかせ、神による満たしに至らせるのです。
Ⅱ.イエスはまことの礼拝とは形式ではなく、神を父とする関係にあることを教えた(4:21-26)
イエスは礼拝についての質問に答えます(21-22節)。イエスは、これから話すことが全く未知のことがらではあるけれども真実なので、「女の人よ、わたしを信じなさい。」と命じています。「この山でもなく、エルサレムでもないところで」とあるように、イエスは場所の論争、すなわちどちらが正統かという論争を退け、全く新しい礼拝が到来していると言います。
サマリヤ人はゲリジム山で勝手に造った神殿で礼拝していました。いわば偶像礼拝です。一方ユダヤ人は神が指定したエルサレム神殿で預言を信じて礼拝していました。両者を比べればユダヤ人の方が正しいと言えます。ただし、サマリヤ人もユダヤ人も礼拝の場所や儀式の仕方、日時、礼拝を行う者など形式にこだわり「こっちの方が正統だ」と主張している点では同じです。けれどもイエスは、礼拝にとって大事なのは形式ではなく、神を父とすることと言うのです。その礼拝をこのように説明します(23-24節)。
神はまことすなわち神の目から見て正しい礼拝者を求めていて、その礼拝者とは「霊と真理によって礼拝する者」と定めています。なぜなら神は霊だからです。霊であるとは「目に見えない存在であり、同時にどこにでも存在でき、永遠で無限であり、人知の及ばないことがらも持っている」神はそういったお方なのです。それゆえ霊と真理によってとはこうなります。
①霊によって:聖霊によって新しく生まれて神の子となり、いつでもどこでも永遠に神を父と呼べる者になっていること。そして、いつでもどこでも聖霊を通して父とやりとりできるようになっていること。ユダヤ人が場所や民族などを限定しているのを否定。
②真理によって:神のお考えやことばをすべて信じ受け入れる者になっていること。そして、どのような状況であっても神に関するすべてをその通りと言えるようになっていること。ユダヤ人のように自分たちの考にこだわるのを否定。
つまり、イエスを救い主と信じる者、言い換えれば水と御霊によって新しく神の子として生まれた者、イエスという生ける水を飲んだ者が、霊と真理によるまことの礼拝を実現できるのです。そしてそのイエスが今、地上に来ているから「父を礼拝する時が来ます。今がその時です。」となるのです。サマリアの女にとって必要な礼拝はサマリヤ人の礼拝でもなく、ユダヤ人の礼拝でもありません。イエスを信じて神の子とされて神を父と崇める礼拝なのです。
さて、イエスのことばに女は答えます(25節)。彼女はイエスのことばを受け止めてはいますが、100%信じてはいません。なぜなら、もし語っている方がメシアだったら、すべてのことを完全に信じられるけれども、彼女の中で未だイエスは預言者のままだからです。それでイエスがこう言います(26節)。
イエスはご自身が「キリストと呼ばれるメシア」であることを告白しました。助けを求める者にイエスはご自身を明らかにしてくださいます。このことばを聞いてサマリアの女は水がめを井戸に置いたまま、町へ行って人々にイエスのことを話しました(4:28-29)。人目を避けなくなったどころか、人前に出て、しかも自分の身に起きたことを語りました。彼女はイエスがすべてを見抜いていることとこのことばでイエスをメシアと信じたのです。彼女はメシアであるイエスに出会いイエスを信じて、新しく生まれたのです。抱えていた恐れや不安は消え去り、彼女の中にいのちの水が湧き出ているのです。まさに霊と真理によって礼拝できる者になったのです。
・おわりに
日曜日の主日礼拝で私たちは神を神として崇め、ほめたたえます。そして、自分はどんな人間だったのか、特に一週間をどのように生きてきたのかを振り返ります。同時に、神から受けた恵みや神に支えられていたことを思い起こします。さらに礼拝を通して不思議な安心や希望が生まれ、神のために生きるという意志が沸き上がります。これらはすべて霊と真理による礼拝がもたらすものです。
ただし人は生まれたままではまことの礼拝ができません。神を父と呼べる関係になっていないからです。その上、あのサマリアの女のようにいつも不安と恐れに縛られた人生です。けれども、イエスが私たちの身代わりに十字架で死に、よみがえることで天の御国への道を開いてくださいました。そのイエスを信じる時、私たちは神の子とされ霊と真理による礼拝ができるのです。
ですから、神が求めるまことの礼拝は特定の民族や血筋、性別、年齢のような制限はありません。また、犯罪を犯した人や不道徳の者でも可能です。これはまさに神のあわれみです。私たちはイエスによって「父よ」と呼べる礼拝ができるのです。
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