■はじめに
12弟子の一人ペテロは「イエスのためにいのちを捨てる」と断言しながら、イエスが逮捕された時いとも簡単にイエスを見捨てて逃げました。その上、イエスの仲間に見られるのを恐れてイエスとの関係を3度否定しました。そんなペテロが後々こう語っています。「罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、それは神の御前に喜ばれることです。(Ⅰペテロ2:20)」彼は、イエスが見捨てられるのを承知の上で自分を愛してくださったから、神の愛をこのように語れるのです。今日は裏切りの予告を通して、イエスの愛について聖書に聞きます。
Ⅰ.イエスはユダの裏切りを見抜いていたが、最後まで悔い改めのチャンスを与えた(13:21-30)
イエスは弟子たちの足を洗う行為を通して、イエスを中心として互いに仕え合うように命じました。そして、これからご自身に起きることを予告します。
イエスは、12弟子の一人が自分を裏切って敵の手に引き渡すことが間違いなく起きると彼らに言います(21節)。そしてこの裏切りが十字架刑に至る直接の引き金となるので心が騒ぐのです。ただし、イエスはイスカリオテのユダが裏切るのを見抜いていたにもかかわらず、全員にそのことを明らかにしません。ご自身が見抜いているのを告知することで、ユダに改心のチャンスを与えているのです。ユダに対するイエスの慈しみがここに現れています。
一方、弟子たちはイエスのことばに戸惑いを隠せません(22節)。何しろ3年間イエスと寝食を共にし、喜びも苦労も共にした者が、師であり主であるイエスを裏切るとはとうてい思えないからです。そこで一番弟子のペテロは、イエスの胸にもたれかかっている弟子に誰なのかを聞くよう目で合図しました(23節)。自分から皆の前で尋ねてもいいのに、ペテロは一番近くにいた者にそっと尋ねるようにしています。おそらくペテロも裏切りを信じられず「本当にそうなのか」と思ったからでしょう。
ところで、胸にもたれかかっている弟子が誰なのかここでは記されていません。ただ、アイコンタクトで、すべきことが分かるほどペテロと親しく、同時にイエスとも親しいことから、伝統的にヨハネとされています。イエスの胸元で彼は、裏切る者が誰なのかを尋ね(25節)、イエスはこう答えました(26節)。
ここでもイエスは全員が分かるように言わず、ヨハネだけが誰かを特定できるような答え方をしています。しかも、パンをスープの皿に浸してから渡すという、客人に対して特別な好意を現す仕草でユダに渡しました。「私はあなたを大事にしている」というメッセージをユダにしているのです。ここにもユダの改心を期待し慈しむイエスの姿が記されています。
イエスのことばにユダが動きます(27節)。既に彼の心には悪魔が働いていて裏切る思いが生まれていました。メシアと信じているイエスに神の国イスラエルを再建する気配が全くないからです。それでユダはサタンの誘惑に乗りました。具体的には、幻滅したイエスを敵に売って金を手にしようとしたのです。彼はイエスの慈しみを受け取らず、自分の欲望を第一にしたのです。ただしこの時、彼は自分の裏切りがイエスの死につながるとは全く思ってもいませんでした。
一方でイエスはユダの裏切りが十字架につながるので、「あなたがしようとしていることを、すぐしなさい。」と言ったのです。そしてユダはイエスのことば通り、部屋を出て行きました(30節)。その場にいた弟子たちはイエスとユダの間に何があったのか皆目見当もつきません。それで、金庫番のユダに買い物や施しを任せるという、いわばいつものことと思ったのです(28-29節)。
今、この状況でイエスはユダの裏切りとそれが十字架の引き金になるのを知っています。ユダはイエスが自分の裏切りを見抜いていることを分かっていますが、自分の裏切りでイエスが死ぬのは頭の片隅にもありません。というのも、後にイエスが十字架刑に決まったのを知り、自分の行いを後悔しているからです。ヨハネは裏切り者がユダであると気づいたでしょう。でも、それが何を引き起こすのかは知るよしもありません。そして残りの弟子たちは目の前の状況すら理解できていません。唯一、神であるイエスがすべてをご存じなのです。だからイエスはユダをはじめ現代の私たちに警告や教えを与えるのです。たとえ自分を裏切ると分かっていてもです。これがイエスの愛なのです。
Ⅱ.ユダの裏切りが十字架の引き金となるから、イエスは神とご自身の栄光を宣言し、弟子に新しい戒めを与えた(13:31-38)
さて、イエスはユダの裏切りから何が起こるのかを語ります(31-32節)。今、ユダは部屋を出ていっただけですが、それが必ず十字架に至るので、イエスは「人の子は栄光を受けた/神も人の子によって栄光を受けた」と確定を宣言するのです。
ここで、人の子すなわちイエスにとって十字架とは人の罪を身代わりに受けるご自身の愛を現しています。また、神にとっての十字架とはひとり子イエスを人間のために犠牲にささげるというご自身の愛を現しています。そしてイエスと神の愛によって人は罪を赦され滅びから救われて、天の御国で永遠に生きます。だから、救われた人はイエスと神を尊び、感謝を表し、ほめたたえ、従順を誓うのです。つまり、イエスの栄光と神の栄光はそれぞれの愛に基づいているのです。違う言い方をするなら、神の愛を受け取って、イエスを信じ永遠のいのちを受けた者が、神の栄光を現すのです。
そこでイエスは十字架で死んだ後のことを語ります(33節)。「子どもたちよ」とイエスは親を失った遺児のように弟子たちを慈しみます。イエスは、この世で探しても見つからないばかりか、人が来ることはできない、と言います。種明かしをすれば、イエスは十字架で死んでよみがえった後、父なる神と共に天の御国に住みます。ですから地上では弟子たちだけになるのです。イエスの栄光、神の栄光の中心は十字架ですが、死からのよみがえりと天に戻るのも当然栄光に含まれます。そこでイエスはこう言います(34-35節)。
イエスが去った後、弟子たちが一つとなって信仰を守り、イエスを世の中に伝えるために、イエスは新しい戒めとして「互いに愛すること」を命じました。隣人を愛するのは既に律法で定められています。けれども今回の戒めでは「わたしがあなたがたを愛したように」とあるように、イエスの愛が互いを愛する動機であり、手本となっています。つまり、十字架による救いのごとく、他者のために自分を犠牲にする、という点が新しいのです。しかも、ユダのように裏切りがわかっていても誠実を尽くすのが、イエスの命じる愛なのです。
そして、イエスの愛を互いに実践する時、イエスの弟子であることが世の中に明らかになります。なぜなら、家族でもないのに互いの違いを受け入れ、他者のために犠牲を払う生き方に変えられているからです。これまでは自分が最優先だったのに、イエスの愛によって自分を後回しにする姿を人々が目にするからです。まさに、生き様がイエスを明らかにするのです。
ここでペテロは新しい戒めよりもイエスが去って行く方を気にします(36-37節)。ペテロはイエスへの忠誠心が人一倍強い弟子ですから、イエスの行く所どこにでもついて行きたいのです。そればかりでなく、「今ついて来ることができません。」と言われたので、死を想定したから「あなたのためなら、いのちも捨てます。」と断言しました。そんな彼にイエスが答えます(38節)。
イエスはペテロの断言を反復し、「本当にできると思っているのか」という気持ちを表しています。その上、「あなたは間違いなくわたしとの関係を3度否定する、とまで言います。ペテロにとっては大変なショックでしょう。けれども、ペテロをはじめすべての弟子たちがご自身を見捨てて逃げるのを知っていながら、今イエスは彼らのためにすべきことをなしています。「裏切りや見捨てるのをあらかじめ知っているにもかかわらず、自分たちのために誠実を尽くしてくださった。」後々弟子たちはこのことを知り、イエスの愛とは何かをはっきりと分かるのです。
■おわりに
人の本質は自己中心です。誰かのために自分を犠牲にするのは容易ではありません。できたとしても、親しい仲とか失敗しても安心できる関係においてです。あるいは、ほめられるとか喜ばれるといった見返りを、どこかで期待しています。反対に、自分を苦しめる人や痛めつけている人に犠牲を払うのは葛藤したり躊躇します。あるいはイエスのように、受け入れてもらえなかったり、裏切られるのが明白でも犠牲を払うのは本当に難しいです。頭では何をすべきかわかっているものの、心がついて行かないのです。
私たちの力でイエスの愛を実践するのは不可能なのです。唯一可能なのはイエスの愛に立つときです。「これまでイエスや神に背き、イエスを信じた後も完全に従えない自分のために、イエスは自らのいのちを十字架にささげた。すべてをご存じで、何の見返りもないのに犠牲となった。」この事実を心に刻み、イエスの愛で心を満たす時、イエスの愛を行えるのです。そして、愛してくださったイエスと神をほめたたえるのです。
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