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木村太

8月16日「目を上げて見てみなさい」(ヨハネの福音書4章27-42節)

・はじめに

 私たちは毎日色々なことに気を使います。健康、食事、仕事、家計、子育て、介護、今であれば新型コロナウィルス感染予防に心もお金も時間も使っていることと思います。こういったことは心配しすぎには注意しなければなりませんが、私たちが安心かつ安全に暮らすために必要な対応です。ただ、目の前のことばかりに集中してしまうと、「何のためにこうやって生きているのか/神は何を求めているのか」を忘れがちになります。そこで今日は、私たちが見失ってはならない視点について聖書に聞きます。

Ⅰ.弟子たちは食事を気にしていたが、イエスは神のみこころがなされることに目を向けていた(4:27-34)

 井戸の水がきっかけでイエスとサマリアの女の会話が始まりました。そこから生ける水、まことの礼拝、キリスト(メシア)へと内容が移り、同時に彼女も自分の渇きに気づきました。そしてキリストの告白によって彼女の心は井戸に来た時とは全く違う状態になりました。ここから新しい展開が始まります。

 食料の買い物から戻って来た弟子たちは、イエスがサマリア人の女と一対一で話しているので驚きました(27節)。彼女が驚いたのと同じです。けれども弟子たちは何一つイエスに尋ねませんでした。彼らはイエスのすることは正しいと信じていたからです。ここでサマリアの女が動きます。

 弟子たちが帰ってきたのをきっかけに、彼女は水を汲むのを止めてスカルの町に行きました(28-29節)。人目を避けて水を汲みに来たのに、自分から人の中へ入ったのです。彼女にとってキリストと出会ったことは、水すなわち肉体や生活の必要を後回しにするほど大事であり、たいへんな驚きと喜びになりました。彼女はその驚きと喜びを町の人々に伝えたくてしょうがなかったのです。しかも「私がしたこと」とあるように、やましい自分のことを明らかにしました。これまでの彼女からは考えられない行動です。彼女が抱えていた渇きはイエスによって完全に解決したのです。

 彼女の話を聞いて人々は町からイエスの所にやって来ました(30節)。サマリア人がユダヤ人を尋ねるのはあり得ないことですので、それほど彼女の変わり様に驚き、彼女を変えたイエスに興味を持ったのです。イエスによって変えられた自分を人々に見てもらうのは、イエスを伝える最も有効な方法と言えます。

 驚くような出来事が起きている一方で、弟子たちはこのような様子でした(31-33節)。弟子たちは食べ物を買ってきてイエスに食事を勧めました。けれどもイエスは「わたしには、あなたがたが知らない食べ物があります。」と不思議なことを語ったのです。当然弟子たちは、誰かがイエスに食べ物をすでに渡したのではないかと疑問を持ちます。そこでイエスはこう答えました(34節)。

 弟子たちには意味不明なことばでしょうが、これを語る意図があります。食べ物は人を動かすエネルギー源です。イエスを突き動かす源は自分を遣わした神のみこころにあり、神のわざをこの地上で成し遂げることにあります。言い換えれば、人を永遠のいのちに導き、永遠のいのちを得させるために十字架にかかること、これがイエスを動かしているのです。「人はパンのみで生きるのではく、神のことばによって生きる」の通りです。それゆえ、今イエスのエネルギー源となっているのはサマリアの女から始まる人々の救い、すなわち永遠のいのちを得る人々が起こされていることです。イエスの目はそちらに向いているのです。一方弟子たちは食事であり、人々の救いには目が向いていません。つまり34節のことばは、弟子たちが向けるべき視点を指摘しているのです。

 神がイエスによって人を救うのは、あのサマリアの女のように人を通してイエスをこの世に明らかにするためです。私たちには感じ、考え、行動する自由が神から与えられていますけれども、それはすべて救いにつながっています。ですから、私たちもあの弟子たちのように日常のものごとに気を使いますが、「私を救ってくださった方のみこころ」を忘れてはいけないのです。同時に、毎日起きている出来事を見る際、「神がどのように働いてくださっているのか」という視点を持つのです。

Ⅱ.サマリアの女によって大勢の人々が「救い」という実りに至った(4:35-42)

 イエスは視点の違いについて説明を続けます(35節)。当時の農業では、麦は種を蒔いてから色づいて収穫するまで最短で4ヶ月でした。弟子たちにとってサマリアは実すなわち救いを受けるまでに長い期間がかかる地域でした。あるいは実を付けない地域と見ていたかもしれません。なぜならユダヤ人から救いが出ると預言されているからです。

 けれどもイエスはそういった見方を退け、メシアから真理を伝えられたらすぐに実を付けて収穫できると言います。今、サマリアではイエスのことばによって一人の女性がイエスを信じ、その女性が町に行って人々にイエスを伝え、その人々がイエスの所に来ています。それも、長い時間をおかず数時間のうちに起きています。まさに、この地域は刈り入れるばかりとなり、永遠のいのちという実が次々と結ばれようとしているのです。

 それでイエスは弟子たちの置かれている状況をこう言います(36-37節)。イエスがことばによって種を蒔き、それによって信じた者たちが永遠のいのちを受け取って弟子の仲間に加えられます。ですから麦畑で言えば、イエスが蒔く者であり、弟子たちが実を刈る者になります。『一人が種を蒔き、ほかの者が刈り入れる」と当時の格言にあるように、永遠のいのちすなわち救いの働きにおいてはそれぞれに役割があります。けれども、実を結んだことを蒔く者と刈る者は一緒に喜ぶのです。どちらが上とかどちらが貢献したかのように比べるのではなく、一緒に喜ぶのです。それほど人が救われるというのはすばらしいことなのです。

 ただしイエスはここに至るまでに労苦があったことを弟子たちに伝えます(38節)。弟子たちはイエスを信じたサマリア人たちを仲間に迎えるという刈り入れの働きです。しかし、イエスの女性への行動があったからこそ、サマリア人の救いが生まれたのです。さらには、アブラハム、モーセ、ダビデ、預言者、バプテスマのヨハネなどが神のことばを人々に伝えたことで、ユダヤ人もサマリア人も「メシアが神の国をもたらす」という土壌を持っていました。もちろんそれらの出来事は神のみこころと神の働きによりますが、先人たちの計り知れない苦労の上に収穫があることを忘れてはなりません。決して自分たちの働きだけで、信じる人が生まれたのではないことをイエスは教えたのです。

 さて使徒ヨハネは「色づいて刈り入れるばかりになっている」様子を記します(39-40節)。たった一人の女性によってスカルの町の人々は次々とイエスを信じました。その上、サマリア人とイエスたちユダヤ人が交流するに至ります。互いに絶対に関わらない者同士だったのにです。イエスは人が造った垣根を壊すのです。そしてイエスを信じる広がりは続きます(41-42節)。

一人の女性がきっかけとなって多くのサマリア人がイエスを信じました。さらにその者たちよりももっと多くの人たちがイエスのことばでイエスを救い主と信じました。一人から莫大な数になったのです。「目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。」弟子たちはこのことばが本当になったのをその目で見ることになります。

 弟子たちがイエスと一緒にいる間は弟子たちは実を刈る者でした。しかし、イエスは十字架で死んでよみがえり、天に上ります。体を保有して地上で活動することはもうありません。その時から弟子たちが種を蒔く者になります。その様子が使徒の働きに書かれています。今度は彼らが労苦し、他の者が彼らの労苦の実を受け取るのです。2000年後の日本にいるクリスチャンは彼らが蒔いた種が実った結果です。私たちは、人がイエスを救い主と信じてバプテスマを受け、教会の一員に加えられることを喜びます。その時、種を蒔いたイエスや預言者や使徒たちも喜んでいるのです。

・おわりに

 ユダヤ人はメシアが現れて神の国に入れるのは自分たちだけ、しかも汚れた人や罪人ではなく律法をきちんと守っている人と信じていました。けれどもイエスはサマリア人の女、しかも罪人とさげすまれるような者にメシアであることを告白し、彼女を救ったのです。そして彼女からたくさんのサマリヤ人が永遠のいのちに至りました。

 ユダヤ人から見ればサマリヤ人は実を結ばない畑です。けれども神からすればすばらしい畑なのです。同じように私たちから見れば日本は1%しか実を結んでいない畑に見えますが、神の目にはそう映ってはいません。私たちが滅びから永遠のいのちに救われたのは、イエスを初め預言者や使徒たち、そして聖書に名を記されていないたくさんのクリスチャンが福音という種を蒔いたからです。今度はこの私たちが将来の収穫を確信して、置かれている所で種を蒔くのです。一人の女性からたくさんの人が救いに至ったように、私たち一人一人の種まきが必ず実を結びます。だからいつも、すべてが色づくことを期待しながら関わる人々にイエスを知らせてゆきましょう。

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