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木村太

8月2日「生ける水」(ヨハネの福音書4章1-15節)

・はじめに

 私たちの人生はいつも喜びと平安で満ちている訳ではありません。うまくいかない時には不満があり、先を見通せない時には不安や恐れがあり、人との別れや死別では痛みや深い寂しさがあります。それで私たちは何とか心を満たそうとします。しかし、完全にかつ永遠に効き目のある手段はありません。もし、この世界に完全にかつ永遠に心を満たすものがあれば、全ての人が必死になってそれを求めるでしょう。そこで今日は、何が私たちの心を満たすのかを聖書に聞きます。

Ⅰ.イエスはサマリヤの女に水を求めることで、ご自身に差別がないことを明らかにした(4:1-9)

 この当時、パリサイ人や律法学者たちがユダヤ人の生き方を指導していました。そんな彼らはイエスのところに人がたくさん集まっているのを耳にして、自分たちよりもイエスが必要とされているのを苦々しく思っていました(1-2節)。それで彼らとのトラブルを避けるためにイエスたちは再びガリラヤ地方に戻りました(3節)。まだ十字架の時が来ていないからです。

 ユダヤ地方とガリラヤ地方を結ぶルートは、サマリア地方を経由するのが一般的でした。ただし、ユダヤ人はサマリヤ地方に住むサマリア人を嫌っていたので、ここを通りませんでした。その理由がイスラエルが南北に分裂していた時代にあります。サマリア人のルーツ北王国イスラエルは他民族との混血を認めていました。一方、ユダヤ人のルーツ南王国ユダはイスラエル12部族の純血を守りました。それで、ユダヤ人はサマリア人を汚れた民族と差別し、関わりを断っていました。ところがイエスはサマリヤを通過するルートを行ったのです(4節)。イエスにとって民族の違いは救いに関係ないから、このルートを行ったのだと思います。

 イエスはサマリヤ地方のスカルという町に入り、イスラエルの父祖ヤコブが掘った井戸のそばで休みました(5-6節)。暑さと長い道のりで疲れていたからです。しかしイエスは水を汲む道具を持っていなかったので、この井戸から飲むことはできずにいました。この時、弟子たちは食べ物を買いに出かけて、イエスは一人でした(8節)。

 そこにサマリア人の女が水を汲みにやって来ます(7節)。水汲みは女性の仕事でしたが、普通は炎天下を避けて涼しい朝か夕方にしていました。今は第六の時、すなわち正午ですので誰も汲みに来ることはありません。つまり、この女性は人に会いたくないので、誰もいない時間帯に来たのです。彼女はこれまで5回離婚して、今は同棲中です(4:18)。ですから昔からの規則によれば彼女は不品行の女と見られたり、あるいは結婚がうまく行かないために神から祝福されない人と扱われていました。おそらく彼女は男性がそばにいないと安心できない、という何らかのつらさを抱えていたと思われます。その女にイエスは水を求めました。

 サマリアの女はイエスに言います(9節)。女は驚きました。なぜなら、一切関わらないユダヤ人から水を求めてきたばかりか、サマリア人が使った道具を手にしたり、そこから水を飲むなど普通ではあり得ないからです。しかも当時は、夫婦や親子以外で女性と一対一になるのを男性は避け、ましてや女性に親しく声を掛けることはなかったからです。イエスはユダヤ人の習慣を破っているのでサマリアの女は本当に驚きました。けれども民族や性別で差別しない態度に安心し、尊敬を抱いたので彼女は次に「主よ」と呼びかけています。

 ユダヤ人はモーセの律法を日常生活に適用するために、歪んだ解釈をして差別を生み出すたくさんの規則を作りました。一方、イエスは救いを求める人を差別せずえこひいきしませんでした。人として扱われていなかった子供や女性を男性と同じように接し、また忌み嫌われていた罪人や汚れた人を誠実に対応しました。「滅びを免れて永遠のいのちを受け取る門」はすべての人に開かれているのです。サマリアの女に対するイエスの態度はこのことを明らかにしています。だから2000年後の日本にいる私たちも同じようにイエスによって救われたのです。

Ⅱ.イエスは女の心が渇いているのを見抜いて、ご自身が心を永遠に満たすことを明らかにした(4:10-15)

 驚きを含んだ女の質問にイエスが答えます(10節)。質問への答えには全くなっていませんが、彼女が抱えるつらさに答えています。「神からの賜物」は、人を平安で満たすために与えられた神からのプレゼントであり、もちろんそれはイエスです。もし、心を満たす方がイエスであり、今目の前にいる人がその本人だとわかったなら、女がイエスに生ける水すなわち心を平安で満たすものを求めるはずです。イエスは彼女の心が安らぎに飢え渇いているのを見抜いているので、与えようとしているのです。

 ところがサマリアの女は「生ける水」を正しく理解できていません。彼女は生ける水について2つの疑問を持っています。一つは水を汲む道具を持っていないのにこんな深い井戸からどうやって汲むのかということ(11節)、もう一つは民族の父祖ヤコブの時代から使われているこの井戸よりも良い水があるのか、という疑問です(12節)。彼女は「生ける水」を体を潤す物質の水と受け取っていました。そのためイエスが「生ける水」について説明を加えます。

 「この水を飲む人はまた渇く。しかしわたしが与える水を飲む人はいつまでも決して渇かない。」このことばから、イエスは「渇き」が水分不足の渇きではなく、さらに水も物質の水ではないことを示しています(13-14節)。イエスが与える水は決して渇きに至らないばかりか、永遠のいのちに向けて湧き出る泉になります。イエスはこの水が永遠のいのちに向けて常に安らぎを与え、この水が生きる力を沸き出すと言います。つまり「生ける水」は人の心に作用するものなのです。そして「永遠のいのちへの水が湧き出る」ということばから、「水を飲む」とは永遠なるイエスを信じてイエスと一つになることを指しています。この福音書の別の箇所で、「生けるパンである私を食べること」は「イエスを信じること」ともイエスは語っているからです(ヨハネ6:47-51)。

 なぜ人は渇き、イエスを信じれば永遠に渇かなくなるのでしょうか。答えは創世記にあります。神が万物を造られた時、神は「非常に良かった」と言いました。人には欠けているところが何一つありませんでした。また、神が人に「思いのまま食べてよい」と語ったように、人は自由に行動できしかもいつも満ち足りていました。つまり神との関係が正しければ渇きは生まれないのです。ところが、罪が入った後は思い通りにならない歩みに定められたので、人に渇きが生まれました。人は「助けて欲しい/何とかして欲しい」という思いを例外なく持つのです。

 けれどもイエスを救い主と信じた者は、花嫁が花婿と一つになるようにイエスと一つになり、神との関係が回復します。イエスが信じる者と神との間を取りなすからです。それゆえ、イエスを通して神から不思議な平安や喜びが与えられるので、人は永遠に渇きません。言い換えれば、最初に造られたときのように、永遠に渇かない人生に入ったのです。生ける水を与えられた者は永遠に渇かない新しいいのちになったのです。

 さて、イエスの答えにサマリアの女はこう言います(15節)。女は渇きと水について未だ真実に気づいていません。この状態ではイエスを信じてイエスから生ける水を飲むことはできません。人がイエスから生ける水を飲むためには、まず自分が渇いていること、すなわち不安や恐れや不満を持っていて「それを何とかしたい」という自分に気づく必要があります。そこからいのちの水であるイエスを求める道に入るのです。

・おわりに

 聖書を解説する本に次のような説明がありました。「サマリアの女は、いつの時代にも見られる典型的な人間の姿を示している。」人は生まれたままでは心に渇きががあり、それを何とかして満たそうとします。その事実に気づいている場合もありますが、ほとんどの人はそれが人間の本性だから当たり前と思っているでしょう。しかし、人の本来の姿は常に永遠に平安と喜びに満ちています。

 さらに人は心の渇きをどう解決するのか分かりません。分からないからこの地上の物事や人でいやそうとします。財産、地位名誉、性的不品行、ギャンブル、薬物、カルト宗教、うらないやおまじない、挙げればきりがありません。けれどもそれは一時的なものであり、一度手にしたら永遠にいやすものではありません。だから神があわれみによって永遠に満たしてくださる生ける水であるイエスをこの世に与えたのです。

イエスの方から女に話しかけたように、神の方からイエスを遣わして、私たちを不安から平安へ滅びから永遠のいのちへと助けてくださったのです。イエスは「その人はあなたに生ける水を与える/わたしが与える水(2回)」と、ご自身が求める人に水を与えることを繰り返しています。イエスは誰をも差別せず、求める人全てにお与えになります。イエスだけが生ける水となって私たちの心を完全に永遠に平安と喜びで満たすのです。

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