・はじめに
神は全能のお方であり、神にとって不可能なことは一つもありません(ルカ1:37)。ただし、約束を実現するための方法が私たちの想像をはるかに越えています。例えばエリコ攻略の時は町をぐるぐる回るだけでしたし、ギデオンの戦いでは数え切れない敵なのに3万2千人の兵士を300人に絞りました。イエスも同じです。成人男性だけで5千人もいるのに5つのパンと2匹の魚を用いました。あるいは、盲目を治すためにつばで泥を作って目に塗りそれを洗うように命じました。この世の知識ではあり得ない方法なので「本当に大丈夫か」と疑ってしまいますが、神の約束は必ずその通りとなるのです。今日は、イエスが行った第二のしるしを通して、イエスのことばは真実であることを見てゆきましょう。
Ⅰ.王室の役人は息子の命を助けるために、イエスに来てもらうように願った(4:43-47)
イエスと弟子たちはユダヤからガリラヤへ向かう途中でサマリアの女と出会い、そこで多くのサマリア人がイエスを信じました。そしてイエスたちは再びガリラヤに向かいました(43節)。ただし、44節「預言者は自分の故郷では尊ばれない」とあるように、故郷では一般的な家庭で育ってきた自分を知っているので神の人として重んじられないと、イエスは常々語っていました。
ところが、ご自身の育ったガリラヤ地方に入った時は大歓迎を受けました(45節)。なぜなら、過ぎ越しの祭りに来ていたガリラヤの人々がイエスの不思議なわざを目撃したからです。とはいえ彼らがイエスを「滅びから救う救い主」と信じていたかどうかは疑問です。ガリラヤの人々はあくまでもイエスの不思議な能力を見て、神から特別な能力が与えられた人と見ていたからです。ガリラヤの人々はイエスを様々な困難から助けてくれる人として歓迎したのであって、神として歓迎したのではありません。
さてイエス一行はガリラヤのカナに入りました。以前、イエスが婚礼で水をぶどう酒に変えるという最初のしるしを行った場所です。そこにある男性がやって来ます(46-47節)。この人はガリラヤ国王ヘロデ・アンテパスに仕える役人でカペナウムに住んでいます。そして彼の息子である少年は死に至る病にかかっていて、高熱を出しながら死に瀕していました。
この父親はカペナウムからカナまで丸一日かけてやって来ました。なぜなら、人知を越えたわざができるあのイエスがカナに来ていると聞いたからです。おそらくカナの婚礼での奇蹟も知っていたことでしょう。彼は息子を助けてもらいたい一心でイエスに会いに来て、治してくださるように嘆願しました。まさに藁にもすがる思いでした。
ここで「下って来て息子を癒やしてくださるように願った。」とあります。この父親はイエスはどんな病をも治すことができると信じています。けれども、直接息子に会って何かをしなければ治せないと思っています。離れていて何をしなくても治せる、という発想はありません。つまり、ことばで無から生み出すような神と同じである、とそこまでに達していないのです。イエスの真実を知っていないのですから当然のふるまいです。
私たちは聖書からイエスの真実を知っていますから、この父親とは異なります。イエスは神と同じ全知全能と信じています。ただ、苦難を解決して欲しい時に自分の考えている方法を優先してしまう性質があります。この父親のように、自分の思っている方法と違っていたら「これは違います」と疑問を持ったり、ひどいときには失望することもあるでしょう。ところが後になって振り返るとちゃんと願った通りになっているのです。無限の神を自分の頭に押し込めるのではなく、最善をなす神のお考えを優先しましょう。
Ⅱ.息子の回復は「イエスのことばは真実である」ことのしるしとなった(4:48-54)
王室の役人の願いにイエスが答えます(48節)。イエスのことばは父親の願いとかけ離れています。そればかりか「あなた方は驚くべき不思議な出来事を見なければ私を信じない」とまで言うのです。例えば「水がぶどう酒に変わる」という不思議を目撃して初めて、あなた方はイエスのことばを信じるようになる、という指摘です。見方を変えれば、常識では考えられないことを言ったら、あなた方は信じないと断定しているのです。
王室の役人はこのことばを聞いても、カペナウムに下って来るように食い下がります(49節)。父親は息子を助けるために必死です。ただ「どうか子どもが死なないうちに、下って来てください。」とあるように、たとえイエスであっても、息子が生きているうちに直接何とかしないと治せないと思っています。まさに、しるしと不思議を見るまではイエスの全能をわかっていないのです。
そこでイエスはこう答えました(50節)。イエスは何をするでもなく、「行きなさい。あなたの息子は治ります。(生き続けます)」と指示しか出しません。イエスはカペナウムに行って息子を治すこともできるのです。でもそうしないのは、父親の知らない真実を明らかにするためでした。
ところが驚くことにこの父親はイエスのことばを信じてカペナウムに帰りました。ただし後ほど、息子が治った事実を知ってイエスを信じていますから(53節)、この時点ではイエスのことばを信頼してはいるけれども、それがその通りになるかどうか半信半疑と言えます。もしこの時点で治っていると確信したなら、イエスに礼を言ったり大喜びで帰っていったという記述があるはずです。
ここで大事なのは半信半疑だとしてもイエスのことばに従うという態度です。カナの婚礼でも給仕たちは水がめの水を世話役に持って行きました。中身がぶどう酒になっているかどうか分からなくてもイエスのことばに従ったのです。イエスの弟子たちでさえ、十字架で死んで三日目によみがえるのを信じていなくてもイエスに従って行きました。イエスのことばを理解できていなくても、あるいは疑いを持っていてもイエスに従うことが何よりも大事なのです。なぜならイエスに従った先に真実を見るからです。
王室の役人は一日をかけてカペナウムに向かいました(51-52節)。帰路の途中で彼のしもべたちが迎えに来ました。彼の息子がすっかりよくなったのを知らせるためにです。彼らは一刻も早く主人に知らせたかったのでしょう。それほどまでに息子は死にかかっていたのです。それで父親は息子が治った時刻を聞いたところ、「あなたの息子は治る」とイエスが言った時刻と一致しました。
その事実を知った父親の姿がこう記されています(53節)。父親はイエスのことばはその通りになると信じました。言い換えれば、イエスそのもを信じたのです。もう何を言われても半信半疑にはなりません。同様に彼の家族やしもべたちも、子供が治った事実と父の証言からイエスを信じました。確かに「何をしなくても遠隔地の子供の病が治る」という不思議としるしを見て、彼らはイエスを信じました。けれどもそれは父親の従順から生まれています。イエスのことばに従った先に祝福があり、イエスは真実であるという信仰が強められてゆくのです。
さて54節にあるように、この出来事は二番目のしるしとなりました。約30km離れたところに瀕死の子どもがいます。そして「あなたの息子は治ります。」と言ったちょうどその時に子どもは完全に治りました。つまり「何もしないのに遠隔地にいて死にかけている子どもが完治した」という不思議が「イエスのことばはその通りとなる」を現すしるしになったのです。イエスのことばは人知を越えています。この世が持っている限られた知識や経験では理解できません。しかし、イエスのことばはその通りとなります。私たちがわかってもわからなくてもイエスのことばは真実なのです。
・おわりに
聖書に記されていることはおとぎ話や神話ではなく事実です。中には現代の知能を持ってしても説明できない出来事もたくさんあります。けれども私たちは実際に見聞きしてはいないけれども、聖書はすべて事実であり正しいと受け取っています。それゆえイエスのことばに完全な信頼をおいているのです。
ヨハネの福音書でも私たちの理解を超えたことがらが記されています。
「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。(3:3)」
「しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。(4:14)」
イエスのことばは真実だから私たちはイエスのことばによって平安と希望を与えられます。たとえ語っていることがらを完全に理解できなくても、真実なことばに従うとき、イエスは驚くべき祝福をくださるのです。
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