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木村太

8月4日「キリストのように」(ピリピ人への手紙2:1-11)


 日本のクリスチャン人口はカトリックを含めても1%と言われています。さらに、そのクリスチャンの中で礼拝出席といった教会生活を保っているのは約1/5と推定されています。ですからキリスト教の話とか信仰に基づく考えを口にしても受け入れられなかったり、時には孤立することもあるのです。と同時に、私たちの周りには人の欲を駆り立て、満たそうとするものがあふれています。極端な言い方かもしれませんが、私たちはいつも自分の内側と外側でキリストから引き離す力にさらされていると言えます。

 そこで今日は私たちが信仰を保つための方法について聖書に聞きましょう。


Ⅰ.互いにへりくだって一つになれば、正しい信仰を保つことができる(2:1-4)

 手紙の中でパウロは偽の教えに惑わされず正しい信仰を保つために、「ただキリストの福音にふさわしく生活しなさい。」と命じます(1:27)。自分がそばにいないので、ピリピのことを心配しているのです。それで具体的なアドバイスを語ってゆきます。

 福音からはずれないために最も大事なこととしてパウロは、教会全体が一つになることを命じます(1-2節)。なぜなら伝道者の書に「一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。(伝道者4:12)」とあるように、人はたった一人で信仰を保つのは難しいからです。それでパウロは1節のように、一つになるための条件を最初に語りました。ここには「もし、キリストにあって励ましがあるなら」「もし、愛の慰めがあるなら」「もし、御霊の交わりがあるなら」「もし、愛情とあわれみがあるなら」とあるように、父・子・聖霊との親しい関係が一致の土台となっています。ただしこれらはすべて、キリストにつぎ合わされているクリスチャンに備わっているものです。つまり、「もし、~があるなら」とパウロは語っていますが、これは「あなた方はすでにこれらがあるから一致ができる」という励ましと言えます。

 このことを土台としてパウロは一致について2節のように命じます。

・同じ思いとなる(同じことを考える)、同じ愛の心を持つ:全員が神の愛に基づいて物事を捉え考えることです。例えば、道でケガをして倒れている人を見たとき、神の愛に基づくか、それとも自分の都合に基づくかでは行動が違います。

・心を合わせる(同じ心を持つ)、思いを一つにする:一致するように務めることを強調しています。

 ですから、教会を構成するクリスチャンは全員キリストにつぎ合わされていますので、全員が神の愛に基づいて物事を考え行動できます。それゆえ、一つになれるのです。

 一方でパウロは、一致を妨げるものを警告しています(3-4節)。「利己的な思い」とは自分の考えや意志を通したい心であり、「虚栄」とは人よりも下になりたくない故に見栄を張ることを言います。つまり、救われていても人にはなお罪が残っているから、人の上に立ちたいとか、反対に見下されたくないという心が生まれるのです。これでは一致にはなりません。だから「へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。」とあるように、他者が主導権を取っても構わないという心を持つように命じるのです。ただし、パウロが「何事も(3節)」すなわちすべてにおいて、そし「それぞれ(4節)」すなわち一人一人が、と言っているように、万事において全員がへりくだりを目指さなければ一つにはなれません。キリストに結びついていても自らの意志でこだわりを捨てなければへりくだりには至らないのです。

 教会には多様な人々が集っていますから、物事の捉え方も考えも違いがあります。このこと自体は悪いことではなく、むしろ豊かさや広がりをもたらす神の恵みと言えます。しかし、それぞれがへりくだらずこだわりを通そうとすれば、険悪な関係になったり、グループによる対立が生まれるなど、教会が弱くなります。これは教会同士にも言えることです。教会が一致、平和、愛の関係となるためには脅しや力づくのように他者を変えるのではなく、自分自身を自己中心や見栄からへりくだりに変えることから始まるのです。


Ⅱ.キリストは十字架の死にまで神に従い、へりくだりの模範となった(2:5-11)

 ここでパウロはへりくだりについて、5節「キリスト・イエスのうちにあるこの思いを抱きなさい」と命じます。これは「キリストのうちにある思い」をクリスチャン同士の関係に取り入れることを意味します。それでパウロは「キリストのうちにある思い」をこう説明します(6-8節)。

 パウロは完全に神に従ったキリストの従順をピリピの人々に示しました。キリストは神の御姿すなわち聖さ、正しさ、愛といった神の性質と全知全能、偏在、無限といった神の能力を持っています。ところがキリストは「神のあり方」つまり神の能力を捨てて、「ご自分を空しくし、しもべの姿」を持ちました。神にとってしもべとは人間を指します。人間の肉体を持つことで、どこにでも同時に出現できる偏在や食べ物を必要としない生命維持などの神の能力が制限されました。しかも、本来は人から仕えられるべき立場だったのに、反対に人に仕える立場になりました。創造主が被造物になるというのは完全に神の権威を手放すことであり、神の権威へのこだわりを捨てた証拠です。これだけでもへりくだりの模範です。

 キリストのへりくだりはこれで終わりではありません。キリストは死ぬ者にまで地位を落としました。死は罪に対する罰ですから、本来は絶対に受けるべきものではありません。その上十字架刑はこの世の犯罪人が受けるべき最も屈辱的で苦痛を伴う刑罰です。全く罪のない神であるキリストが人となっただけではなく、絶対にあり得ない死を受け、さらに地上で最も悲惨な十字架刑で死にました。これ以上低くなれないところまで、キリストは神の権威を手放して低くなられたのです。

 ただしこの事実は8節「従われました。」とあるように、神のみこころなのです。イザヤ書にこうあります。「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。(53:5)/しかし、彼を砕いて病を負わせることは【主】のみこころであった。(53:10)」人は罪の故に肉体の死を迎え、その先には神の怒りである永遠の滅びに行くべき存在です。ところが神は人を愛するが故に、目に見える形でキリストを地上に生まれさせ、人の身代わりとして罪なき者なのに十字架につけて死なせました。キリストは神という権威を手放して完全に父なる神に従いました。これが真のへりくだりなのです。

 この完全な従順のゆえに、神はキリストを神の地位に高くされ(9節)、そして「主」というご自身と同じ呼び名をキリストに認めました。それで10節「天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが」とあるように、目に見える存在も目に見えない存在もすべてのものがキリストを主と信じ、口に出して、キリストを遣わした神をほめたたえるのです(11節)。

 神が人を愛したように、キリストも人を愛したから、神に従いました。キリストの十字架はへりくだりの証拠であり、同時に私たちを愛した証拠でもあるのです。神が我が子キリストのいのちを与えてまで人を大切にしました。ですから自分を譲らず人を尊ばないのは神を否定しているのと同じであり、キリストの十字架を無視しているのと同じです。キリストが十字架の死にまでへりくだったのは、私たちがこだわりを捨てて互いに赦し合う関係となるためなのです。



 信仰は自分と神との一対一の関係です。一方で信仰生活(信仰を保ち、信仰に基づいて生きる)は共同体で送るように神は定めています。神は男と女に人を造り、夫婦から次の世代が誕生するようにしました。そして、キリストの福音までに神の栄光を広げる手段として、イスラエル民族を定めました。同じようにキリストも12弟子を選び、あらゆる国の人々を弟子としなさい、と命じました。決して、たった一人で信仰の人生を送るようにはしていないのです。だから共同体として信仰に生きるためには互いにへりくだって励まし合い、支え合い、場合によっては戒めることが必要なのです。私たち一人一人がキリストの謙遜を身につければ、クリスチャンの群れはますます平和と愛が増し加わり、天の御国に近づくでしょう。


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