■はじめに
7/26からパリオリンピックが始まり、様々なメディアで競技の様子が伝えられています。特に、日本選手が金メダルを取った翌日は、新聞の1面で「日本の誇りとか喜び」として取り上げられます。私たちは不思議なもので、メダルを取った選手と全然関りがないのに同じ国と言うだけで喜んだり誇りに思ったりします。ご存じのように、パウロも神の家族である信者のことを喜び誇りに思い、そのことを手紙に書いています。ただし、パウロの場合は何らかの功績(てがら)で喜んではいません。今日は神にとってどんなことが誇りや喜びになるのかをみことばに聞きます。
■本論
Ⅰ.テサロニケの信者は福音を神のことばとして受け入れたが、ユダヤ人たちは拒んだ(2:13-16)
パウロはテサロニケの信者たちに、自分たちの福音宣教は私利私欲のためではなく、神の喜びのためであると伝えました。そして、テサロニケの人々に配慮して活動したことも明らかにしました。その上で、パウロは自分たちの活動に対してテサロニケの人々がどのように応じてくれたのかを伝えます。
パウロはテサロニケの信者のことを神に感謝し、その理由を「私たちから聞いた神のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実そのとおり神のことばとして受け入れてくれたからです。」と説明しています(13節)。福音の中心は「十字架で死んでよみがえったユダヤ人イエスがキリスト(救い主)」ですが、当時は馬鹿げたことがらでした。ですから、大方の人々は「人間の作り話」として聞きます。信じないどころか真実として聞いてはくれません。
けれども、テサロニケの信者たちは、パウロたちのことばを真実であると同時に、神が語ったことばとして聞き、受け入れました。ちょうど、旧約聖書でイスラエルの民が預言者のことばを神のことばとして受け入れたのと同じです。ただし「この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いています。」とあるように、彼らが神のことばとして受け入れ、イエスを救い主として信じ、生けるまことの神に仕えるようになったのは、「神のことば」すなわち神ご自身の働きによるとパウロは確信しています。
先ほど申しましたように、世間では福音は信じるに値しないものと見られています。しかも、ユダヤ人が福音を信じたら、キリストを否定するユダヤ人から迫害されるのは明白です。しかし、テサロニケの信者たちは、あり得ない状況の中で福音を神のことばとして受け入れ、イエスを救い主と信じたから、パウロは「まさに、神の働きだ」と語るのです。自分と同じことが起きたからこのように確信したのです。
さらにパウロは自分がテサロニケの信者をどのように見ているのかを伝えます。「ユダヤの、キリスト・イエスにある神の諸教会(14節)」とは、キリストを否定するユダヤ人社会において、キリストを信じる者が立て上げた教会を指します。ユダヤ人クリスチャンが同じユダヤ人から妨害や攻撃を受けたように、テサロニケの信者もまた苦しみを受けたから、倣う者になっているのです。まさに、ユダヤ人から苦しめられたイエスと同じ姿になっているのです。
ここでパウロは彼らを苦しめているユダヤ人のことを言います。「ユダヤ人たちは、主であるイエスと預言者たちを殺し... 私たちが語るのを妨げ(15-16節)」とあるように、ユダヤ人の父祖たちから今に至るまで、いかに神のことばに敵対していたのかをパウロは明らかにします。かつてのパウロのように、彼らは神のためにと信じてやっていますが、真実は罪の升目をどんどん満たして、今にも滅ぼされて当然の状態まで来ています(16節)。イエスやパウロたちが伝える福音を神のことばとして受け入れた者たちが神の喜びとなるのとはまったく逆です。ただし「極みに達しています。」とあるように、神の怒りを免れる時間的猶予がわずかに残っていることをパウロは示しています。ここに、ユダヤ人の救いを願っているパウロの思いが込められています(ローマ9章)。
手紙の最初で、パウロはテサロニケの信者について「神に愛され選ばれた者」と言っています。つまり、神が選んだ者の中に神のことばが入って働くから、彼らは苦難が明らかであってもイエスを救い主と信じて告白し、「信仰と愛と希望」に生きてゆけるのです。これがパウロの喜びであり、イエスの喜びであり、神の喜びです。と同時に神の働きだからパウロは「絶えず神に感謝」するのです。ただし、福音を耳にして直ち受け入れていないからといって神に選ばれていないと判断できません。なぜなら、神のことばが働く時期、があるからです。これはパウロの回心や私たち自身のことを振り返れば明らかです。ですから、私たちは神が働くように祈りながら福音を伝えるのです。
Ⅱ.信仰を貫いているテサロニケの信者はパウロにとって誉れであり、喜びとなっている(2:17-20)
パウロはテサロニケの信者たちに自分の気持ちを伝えます。第一回目の説教で申しましたように、パウロたちはテサロニケでユダヤ人から暴行されそうになったので、信者たちはパウロたちをベレヤに逃がしました。ただし、「心が離れていたわけではありません。」とあるように(17節)、パウロの心は神の家族であるテサロニケの信者たちと堅く結ばれていました。手紙の冒頭で「あなたがたすべてについて...いつも...絶えず思い起こしている」がこのことを証ししています。親が生まれた子供をいつくしむように、パウロも自分たちの活動によって新しく生まれたテサロニケの信者をいつくしんでいるのです。
それでパウロはテサロニケの信者たちに再び会おうとして何度も行こうとしましたが、それは実現しませんでした(18節)。「しかし、サタンが私たちを妨げたのです。」とあるように、彼らの所に行かせない霊的な力をパウロは感じたのでしょう。「私パウロは何度も」のことばから、彼がどれほどテサロニケの人々を慕っていたのかがわかります。
それゆえパウロの気持ちが溢れ出てきます。パウロにとってテサロニケの信者は「自分の望み、喜び、誇りの冠」です(19-20節)。
・望み:「神の働きによってテサロニケの信者がなすべきことを完了する」ことへの期待
・喜び:親が子を誇りとするような喜び
・誇りの冠:冠は勝利のしるし。苦難の中で信仰を守り通したゆえに、この世に勝利したしるし
言い方を変えればこうなります。「この人たちなら神の働きによって自分たちの役割を果たしてくれると期待していました。どんな苦難の中でも信仰を保っていた素晴らしい彼らをうれしく思います。彼らこそ私たちが世に勝利したしるしです。」そして「主イエスが再び来られるとき、御前で」とあるように、イエスの前で口にできるのですから、このことは完全な真実なのです。イエスが再びこの地上に来たとき、パウロは自分の実績を誇りにしたり喜びとしてイエスに報告しません。パウロはテサロニケの信者の信仰が自分たちの誇りであり、喜びだとイエスに告げるのです。しかも、まだゴールに達していないのに、「彼らこそが私たちの栄光であり、喜びなのです。」と再臨のときにパウロは証言できるのです。それほどまでに、テサロニケの信仰は健全で揺るがないとパウロは確信しているのです。
パウロはテサロニケの信者にこれ以上ないほめことばを伝えています。なぜなら、福音を神のことばとして受け入れ、ユダヤ人からの脅威が明らかであってもイエスを救い主と信じたからです。さらに、予想通りユダヤ人からの迫害があっても「信仰から出た働きと、愛から生まれた労苦、私たちの主イエス・キリストに対する望みに支えられた忍耐を」貫いているからです。そして、パウロと同じように彼らもユダヤ人社会におけるクリスチャンの模範となっているからです。「クリスチャンが信仰によって生きていること」これがパウロの誇りであり、喜びなのです。
■おわりに
現代の日本において、誰かが自分の喜びや誇りとなるのは、何らかの功績があるかないかにかかっています。最初にお話ししましたように、オリンピックで自分の国の選手がメダルを取ったときなどはその典型です。最近の話題だと、新札の肖像に選ばれた渋沢栄一や津田梅子、北里柴三郎に関係する自治体や学校は彼らを誇りにしている、と発信しています。
しかし、私たちの信仰ではそうではありません。何らかの良い成果によって喜んだり誇ったりはありません。
・世間ではおかしな話とかありえない話と言われても、神のことばすなわち聖書は真実だと認める
・「ユダヤ人イエスは神の子であり、十字架で死んでよみがえり、信じる者を罪から救う』」このことを信じる
・信仰を持ったために苦しい目にあっても、信仰を捨てず信仰に基づいて生きる
人をあわれむ神が、十字架で死んだイエスが、パウロをはじめとする使徒たちが、そして福音に携わるすべてのクリスチャンが、このように生きているクリスチャンを喜び、誇りとするのです。ですから、この三笠で信仰を貫いている私たちは神に喜ばれているのです。
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