■はじめに
世の中では、人と人との間あるいはグループとグループとの間で、いつも意見が一致するとは限りません。互いに譲らず膠着状態になったり、それが争いに発展する場合もあります。そんなときは、両者をよく知る者が間に入って、ことを平和に収める必要があります。この働きがとりなしです。我が家ではニッキ(柴犬)が間に入ってどちらが悪いのかジャッジし、ことが収まります。ある意味、ニッキが夫婦の間をとりなしているのです。今日はイエスのとりなしという役割について聖書に聞きます。
Ⅰ.イエスは人を神とともに住まわせるために、父なる神の所に行く(14:1-7)
イエスは「もう少しの間は一緒にいるけれども、その後は誰もついて来れない所に行く」と弟子たちに語りました。このことについてさらにことばを続けます。
「頼っていたリーダーが間もなくいなくなり、しかも誰もついて行けない」というのは弟子たちにたいへんな不安となります。だからイエスはうろたえるなと命じます。と同時に「神を信じ、またわたしを信じなさい。」と言います(1節)。なぜなら、去って行くことが弟子たちの平安と希望になるからです。災害で命の危機に直面した時、リーダーが「大丈夫。必ず救援を連れてくるから。」といって出てゆくようなものです。それでイエスは何のために去って行くのかを明らかにします(2-3節)。
イエスが去って行く所は父の家であり、そこに神を父とする家族の住まいがあります。直前に「神を信じ、またわたしを信じなさい。」と言ったように、イエスを信じる者が神の家族としてそこに住みます。イエスは弟子たちをそこに住まわせるために準備をし、住めるように整えたら彼らを迎え入れるために再びこの世に来られます。それが再臨です。
「わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」とあるように、イエスは弟子たちを見捨てたのではありません。父のおられる家で再び彼らと一緒となるために、一時的にいなくなるのです。再会の約束は弟子たちに安心をもたらすでしょう。そして十字架の後、見捨てたにもかかわらず、イエスの方から受け入れてくださることに彼らはイエスの深い愛を知るのです。
ここでイエスはこれから行く所すなわち父の家とそこへの行き方について、弟子であればわかっているはず、と言います(4節)。7節「いや、すでにあなたがたは父を見たのです。」とあるように、イエスの生き様を通して、イエスの父が神だと分かれば、イエスの行き先が神の国だと分かります。ただ、そこへの行き方は神の国と永遠のいのちとの関係を悟っていなければ分かりません。残念なことにトマスを初め弟子たちは行き先も行き方も悟っていませんでした(5節)。それでイエスはこう言います(6節)。
イエスは道すなわち父の家へ行くための方法です。イエスは真理すなわちイエスが真実です。イエスはいのちすなわちイエスが永遠のいのちをもたらします。それゆえ父の家に行く方法はイエスしかありません。このことばにおいて、イエスは道といのちのつながりを示しました。つまり、永遠に生きる所が父の家であり、そこへの行き方が道なのです。すでにイエスは永遠のいのちについて教えています。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。(ヨハネ11:25-26)」ですから、イエスを信じることが父のおられる天の御国への道であり、永遠のいのちを受ける道なのです。言い換えれば、イエスがご自身を信じる者を父の家に迎え入れ、そこで永遠に一緒に住むのです。
ただし、父の家が神のおられる天であることは真理に目が開かれていないと分かりません。それゆえ、7節「今から父を知るのです。」とあるように、よみがえったイエスが天に昇られる出来事が、イエスの父が神であり、父の家が天であることを明らかにします。今は十字架の前ですから、弟子たちは薄々気づいた程度でしょう。けれども、よみがえったイエスが天に昇られるのを見て「天にある父なる神の家で永遠に住むためにはイエスを信じる他ない。」という真理を確信するのです。
イエスが天に昇られて以降、弟子たちも私たちもこの地上でイエスの姿を見ることはできません。けれどもイエスは天から私たちを見守っておられ、そして私たちと一緒に住むために再びこの世に来られます。「やがて天の御国で神とイエスと、さらにはすでに召された方々と一緒に永遠に生きる」この約束が私たちの希望であり、この世を生き抜く力になるのです。
Ⅱ.イエスは神のおられる所で神と人との間をとりなし、人にイエスを証しする力を与える(14:8-14)
ここでピリポが「いや、すでにあなたがたは父を見たのです。」のことばに反応します(8節)。イエスは弟子たちに「はい。この方が私の父です。」と見せたことはありません。人は誰でも直接見なければ納得しないから「すでにあなたがたは父を見た」と言われても、弟子たちにはさっぱり分からないのです。そこでイエスが答えます(9-10節)。
すでにイエスは、語ることばも不思議なわざも自分勝手にしているのではなく、父から示されたことだけをやっている、と証言しています(ヨハネ5:19-20)。それゆえ「わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられる」とあるように、父とイエスとは一体だからイエスを見れば父を見ることになるのです。弟子たちは約3年間イエスと一緒に生活しましたから、イエスの威厳ある態度、計り知れない知恵、人にはできないわざ、これらを直に見ています。だから、本来であればイエスが神の子であり、イエスを通して父すなわち神を知っているはずなのです。けれどもこの世の常識、中でも「神が人になるのはあり得ない」という先入観が彼らの目を曇らせ、イエスを人としか受け取れないのです。
それでイエスは11節「わたしが言うのを信じなさい。信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい。」と命じるのです。イエスという人に注目すれば「神は人にならない」という先入観からイエスを神と信じることはできません。それゆえ、人知の及ばないわざだけに注目すれば「イエスは神だ」と気づくのです。
ここでイエスは、ご自身と父が一体であることを信じる者について約束します(12節)。イエスを信じる者はこの世でイエスと同じ不思議なわざを行えます。例えば、不治の病を治したり、悪霊を追い出したりすることです。その上イエスは、自分よりも大きなわざ、言い換えればイエスがやっていないことを行う、と言います。それは異邦人から始まる全世界への伝道です。イエスが天に戻り、聖霊が弟子たちに降りた後、彼らはイエスと同じわざをしました。そしてイエスがなしていない異邦人への伝道を始めました。つまり、イエスを信じる者はこの地上においてイエスの代理となっているのです。
なぜイエスと同じわざが可能なのか、その理由をイエスはこう言います(13-14節)。先ほど、イエスは自分勝手にわざをなしていないと申しました。イエスは必要を神に求め、神がイエスを通してわざをなしています。それと同じように、イエスを信じる者は父なる神に必要を求めます。その際、人と神との間にイエスがおられるのです。これがとりなし、言い換えれば仲介であり、そのためにイエスは神のもとに行くのです。
ここで求める際に大事なのは「わたしの名によって求める」ということです。「私の名によって」とはイエスが唯一まことの仲介者であり、イエス以外にとりなす者はいない、と信じることです。イエスを信じる者、イエス、父なる神この3者の間には完全な信頼があるから、要求が忘れられたり、無視されません。これこそがイエスを信じる者の特権なのです。
ただし、「父が子によって栄光をお受けになるためです。」とあるように、人がイエスの名によって神に求めるものは、神の栄光を現すものに限ります。単に自分を満足させることがらとか、神の評判を落とすようなことがらを求めてはなりません。さらに、「何でもしてあげる」と約束しているのに、求めたことがらがその通りにならない場合もあります。それは要求が届いていないとか、無視されたのではありません。神の栄光を現すために今必要ではない、あるいは他のものの方がさらに良い、と神が判断しているのです。「イエスを通して自分の要求はすべて神に届いている。そして神は最善をなしてくださる。」ここに私たちの安心と希望があります。
■おわりに
神は滅ぶべき人をイエスの十字架で滅びから救い、やがて天の御国に迎えてくださいます。そして、地上にいる間はイエスの代理としてイエスよりも大きなわざをなさせてくださいます。それはこの世にご自身の存在を明らかにし、ご自身のすばらしさを明らかにするためです。世の人々はイエスを信じる者のわざやことばを通して神やイエスを知り、信じてゆくのです。そのためにイエスは私たちと神との間を常に怠ることなくとりなし続けています。
永遠のいのちもイエスを証しするために必要なものもすべて神がイエスを通して与えてくださいます。「わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。」この約束を決して疑わず信頼し、神の栄光のためにイエスを通して神に求めてゆきましょう。私たちに与えられた特権に感謝しつつ、神のために用いましょう。そして、求めた通りにならなくても神が最善をなしてくださっているという安心を持ちましょう。
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