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木村太

9月11日 召天者記念礼拝「天の御国での再会」(コリント人への手紙 第一 15章35-49節)

■はじめに

 この世界で全ての人に訪れるもの、それは死です。誰一人死から逃れることはできません。そして死は生きているときのあらゆる関係を終わらせます。話しかけても、さわっても一切の応答はありません。生きている者と天に召された者との間には回復することのない絶対の断絶があります。それゆえ残された者には深い悲しみや寂しさがあり、ときには悔いが残るのです。ただし、キリスト教には天の御国いわゆる天国での再会という希望があります。今日は「地上で別れた人と私たちが天の御国でどのように再会できるのか」を聖書に聞きます。


■本論

Ⅰ.私たちはイエスと同じ栄光のからだとなる(Ⅰコリント15:35-49)

 イエスを救い主と信じた者には行くところがあります。それが天の御国です。そのことをイエスはこう言っています。


「わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。(ヨハネ14:2-3)」


 十字架で死んだイエスは3日目によみがえって弟子たちの前に現れ、父のおられる天に上ってゆきました。イエスが天に上った理由は、父の家すなわち天の御国で弟子たちの住まいを準備するためでした。そして、準備が整ったら再びこの地上に来て(再臨)、彼らを天の国に入らせます。つまり、イエスが再び来たときに私たちは天の御国に入り、そこで神とイエスと永遠に暮らすのです。


 ところで、骨肉が朽ちたり、灰になって土に帰った人がどうやって暮らすのでしょうか。パウロは天の御国での私たちの姿をこう記しています。


「しかし神は、みこころのままに、それにからだを与え、それぞれの種にそれ自身のからだをお与えになります。どんな肉も同じではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉、それぞれ違います。また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの輝きと地上のからだの輝きは異なり(Ⅰコリント15:38-40)」


 神はご自身の目的に従って多種多様な動植物や自然を造りました。それぞれが特別な役割を果たすために、姿も形も性質も組織も違うのです。それと同じように、人のからだも、私たちが生きている地上でのからだと天の御国でのからだは異なるのです。それでパウロは地上のからだと天のからだとの違いを明らかにしました。


 「死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、力あるものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。(Ⅰコリント15:42-44)」


 両者にはこのような違いがあります。

・地上:朽ちる、卑しいもの、血肉のからだ、地から出て土で造られた(私たち人間の体)

・天:朽ちない、栄光あるもの、御霊に属するからだ、天から出た


 創世記1章にあるように、地上の私たちは土地のちり、すなわち地上の物質から造られ、血肉で出来ています。そして罪という神に背く性質を持つため、地上のからだは心も体も傷つく弱さを持っています。さらに年齢と共に衰え・気力が少なくなり、ついには死んで朽ち果てます。また、卑しいものと言われるように、罪のために神の不名誉となるふるまいをしてしまいます。私たちが悪を考え行えば、私たちを造った神の栄誉を貶めることになるからです。


 一方、天でのからだは地上の人間とは異なる、いわば超自然的なからだです。なぜなら、よみがえったイエスは戸が閉まっていても突然部屋の中に現れたり、人であれば死に至る傷があっても生きているからです。イエスは死んだ者の初穂(Ⅰコリント15:20)だから、イエスを見ればよみがえったときのからだがわかるのです。


 それゆえ、天のからだは永遠に変わりなく、弱くもならず朽ちることもありません。同時に、天の御国では地上での罪がすべて消え去り、イエスと同じ聖さを持っているから、神の栄誉を貶めることは全くありません。黙示録に「以前のものが過ぎ去ったからである。(黙示録21:4)」とあるように、天の者は地上の人生を完全に切り離し、その存在すべてで神の栄光を現すのです。


 天のからだには罪ゆえの苦しみ、痛み、不安、恐れはありません。病気に苦しんでいた人はその苦しみから解放されます。事故や災害で痛み傷ついた人はそれら一切がなくなります。また、罪がない世界なので争い、貧困、差別といった社会的苦しみからも解放されます。あるのは平安と喜びです。ここに地上に残された者の慰めがあります。


Ⅱ.私たちは天の御国で一人一人を見分けることができる(マタイ26:29,8:11)

 今申しましたように「以前のものが過ぎ去った」というのは体も心も一新されることを意味します。とすれば再会したときに誰が誰だかわかるのでしょうか。SF映画のように記憶がリセットされて白紙のようになってしまうのでしょうか。


 十字架にかけられる前の夜、イエスは12弟子とこの世で最後の食事をとりながらこう言いました。


「わたしはあなたがたに言います。今から後、わたしの父の御国であなたがたと新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは決してありません。(マタイ26:29)」

「あなたがたに言いますが、多くの人が東からも西からも来て、天の御国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に食卓に着きます。(マタイ8:11)」


 イエスは父の御国すなわち天の御国で再び弟子たちと食事を囲むと約束しました。ただし天の御国にはアブラハム、イサク、ヤコブといったイエスの時代から約2000年も前の人たち、そして全世界から救われた人々が集まっています。


 けれどもイエスは無数ともいえる人々の中でペテロやヤコブといった弟子たちを見分けます。つまり、天の御国では以前のものが過ぎ去って新しいからだになっても、「その人が誰なのか見分けられる」特徴を持っているのです。ちょうど、弟子たちがよみがえったイエスを見て、「イエスだ」とわかったようにです。さらには、アブラハム、イサク、ヤコブをはじめモーセやエリヤなど、私たちが地上で会ったことがない人々も見分けることができます。だから再会と断言できるのです。


 冒頭で申しましたように、死はこの地上での断絶をもたらすから、辛く悲しいのです。しかし、私たちは天の御国で再び会い永遠に共に過ごせます。だから、私たちは死を一時的な別れとして受け止めることができるのです。再会が確かだからこそ、私たちはここから慰めを得るのです。


Ⅲ.天の御国では完全に愛の関係となり、地上での罪を含む関係は消え去っている(黙示録21:3-4)

 では、「以前のものが過ぎ去った」天の御国では私たちはどのような関係となるのでしょうか。今、私たちが生きている地上世界の人間関係をパウロはこう指摘しています。


「彼らは、あらゆる不義、悪、貪欲、悪意に満ち、ねたみ、殺意、争い、欺き、悪巧みにまみれています。また彼らは陰口を言い、人を中傷し、神を憎み、人を侮り、高ぶり、大言壮語し、悪事を企み、親に逆らい、浅はかで、不誠実で、情け知らずで、無慈悲です。(ローマ1:29-31)」


 これらは神と人を大切にしない罪から出ている悪です。まさに愛の欠如と言えます。けれども天の御国ではこれらの悪はありません。もう一度、よみがえったイエスのことを見てみましょう。かつて弟子たちと一緒にいたときイエスはこう言いました。


「わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。(ヨハネ14:3)」


 つまり、私たちはイエスと同じように朽ちない栄光のからだになると同時に、聖であり、義であり、愛であるイエスと同じ性質にされています。でなければ神のそばに行くことはできません。ですから地上のような愛の欠如は決してありません。自己中心にならず互いに尊敬し、互いを大切にする関係だけなのです。この様子をヨハネは記しています。


「私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。(ヨハネの黙示録21:3-4)


 天の御国では、地上での悪しき人間関係を引きずることはありません。人が地上で受けるあらゆる辛さはもう過ぎ去っているのです。再び会っても、過去を持ち出して怒りや憎しみ会うことはありません。そこにあるのは人との平和、自分の平安、そして互いの喜びだけなのです。


■おわりに

 私たちの命には必ず終わりが来ます。それゆえ、別れを避けることはできません。そしてこの世で二度と会うことはありません。墓前礼拝の式次第に召天者のお名前がありますが、その方々と絶対にお会いできないのです。しかし、イエスによって私たちは天の御国で再会が必ずできます。だから、再会に希望を持つことができます。しかも平安と喜びだけの間柄なのです。ただし、地上に残された私たちには、人生の中で二度と会えないつらさが残ります。「目の涙、悲しみ、叫び、苦しみ」があります。その慰めを主に求め祈りながら、「もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない」この再会を待ち望みましょう

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