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木村太

9月12日「イエスは私たちを友と呼ぶ」(ヨハネの福音書15章12-17節

■はじめに

 皆さんにとって友と呼べるのはどんな人ですか。「安心できる/何でも相談できる/気を使わない」など、それぞれに定義があると思います。ちなみに私は「職業とか地位のような肩書きが消える人/同じ事を言われてもカチンと来ない人」といったところでしょうか。イエスも私たちを友と呼んでいます。私たちにとってイエスは神であり救い主なのに、なぜ友となれるのでしょうか。今日は私たちとイエスとの関係について聖書に聞きます。


Ⅰ.イエスにとどまる者は互いのために自分をささげ、イエスの友となっている(15:12-15)

 イエスはぶどうの木のように、ご自身にとどまる者すなわちイエスのことばを守る者が豊かな実を結ぶと弟子たちに語りました。イエスは11人の弟子たちをすでにとどまっている者と見ているのです。そしてイエスは彼らに勧告します(12節)。


 12節「わたしがあなたがたを愛したように」とあるように、イエスはご自身を手本として「イエスを信じる者同士が互いに愛する」という戒めを与えました。この戒めを守ることがイエスの愛にとどまることになるからです。その上でイエスは「互いに愛し合うこと」を説明します(13節)。


 「人が自分の友のためにいのちを捨てる」とは、自分が友を覆って友が受ける痛みや苦しみといった辛さを引き受け、友を助ける、そんなイメージです。肉体や精神、時間、能力、財産など自分の持っているものを友のために用いるのが愛であり、「いのちを捨てる」のはその極みなのです。他者からすると何一つ自分のためにならないムダとか浪費に見えるかもしれません。けれども、本来自分が被る必要のない友のつらさを自分が被る、これがイエスの言う愛なのです。


 イエスはその愛を実践しています。例えば、安息日に弟子たちは空腹だったので麦の穂を摘んで食べました(マルコ2:23-28)。ある時は、洗っていない手で食事をしました(マルコ7:1-23)。それを見た宗教指導者たちは戒律違反を責めますが、弟子に代わってイエスが反論しました。日本語的に言うならばイエスが弟子をかばったのです。ただし、イエスが反論したことでイエスが批判の対象となり、それが十字架につながってゆきました。イエスの求める愛とは、仲間の辛さを自分が身代わりとなって被ることなのです。


 そのような者をイエスはこう言います(14節)。互いに愛し合うことをはじめとしてイエスの戒めや教えを守る者はイエスにとどまり、神の栄光を現すという実を結びます。それはイエスと同じ働きをする、いわば同労者となり、同時にイエスのために苦しみを受けることになります。言い換えれば、イエスが地上で受けるべき苦しみを弟子たちが被っているのです。しかも弟子たちはイエスのためにいのちを捨てます。それゆえ、弟子たちとイエスが互いに愛する関係となっているから、イエスは彼らを友と呼ぶのです。イエスが言う友とは、互いに覆い合って相手の辛さを担う関係なのです。


 それでイエスは弟子たちは弟子以上の者と言います(15節)。イエスは彼らに対して、もはや先生と弟子、主人としもべではないと言います。なぜなら、弟子たちはイエスから父なる神のみこころを教えられ、イエスが何をなそうとするのか知っているからです。イエスは弟子たちだけに神のこと、いわゆる奥義を語りました。つまり、イエスは彼らを信頼し、自分の代理が勤まる者と見なしているから、しもべと呼ばないのです。神学校で教師は学生を○○さんと呼びますが、卒業して教会の教職者になったら○○先生と呼ぶのに似ています。


 十字架のあと、弟子たちはイエスがいない中で互いに助け合いながらイエスを伝えてゆきます。そのために逮捕され、投獄され、むち打たれ、いのちを落とします。それでイエスはご自身と同じ働きをし、ご自身の苦しみを担う者を友と呼ぶのです。私たちも教会や教会の仲間のために自分をささげています。また、キリスト教とは異なる価値観の中で、あるいはキリスト教とは異なる宗教・風習の中でクリスチャンゆえの苦しみに合います。でもそれはイエスの苦しみを被っているのです。だから私たちもイエスの友となっているのです。


Ⅱ.イエスがとどまる者を選び、その者をご自身の同労者に任命した(15:16-17)

 さてイエスはどうして庶民である弟子たちに「父から聞いたことをすべて」語ったのでしょうか。その理由がここにあります(16節)。イエスにはたくさんの弟子がいましたが、イエスの教えを受け入れられない者たちは離れ去ってゆきました(ヨハネ6:66)。イスカリオテのユダもイエスに失望し、イエスを裏切りました。残った11人は彼らの意志で残ったのですが、それはイエスが彼らをそうさせたのです。「わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。」とあるように、文字通りイエスが彼らを招きました。しかもイエスにとどまる意志もイエスが彼らにもたらしているのです。


 現代も多くの人がキリスト教に基づく幼稚園や学校で学んでいます。あるいは教会のイベントに行ってみたり、自分で聖書を読む人もいます。けれどもイエスに触れた人々が全員イエスにとどまってはいません。イエスに触れた人の中からイエスを救い主と信じる人が生まれますが、それもイエスの選びによるのです。


 イエスが弟子たちを選んで任命したのには理由があります。

①行って:伝道。全世界に出ていってイエスを知らせる。

②実を結び:出ていった所で神の栄光を現し、イエスを信じる者が起こされる。

③その実が残る:イエスを信じた者がその所に留まってさらに実を結び、次の世代に信仰を継承する

④父に求めるものをすべて、父が与えてくださる:イエスを知らせるために必要なものを人に与える


 この4つはまさにイエスの活動そのものであり、父がイエスを地上に遣わした目的そのものと言えます。つまり、イエスはたくさんの人の中から11弟子を選んで、ご自身と同じ働きをする同労者、ご自身の代理人に任命したのです。だから、父から聞いたことをすべて弟子たちに知らせたのです。


 このことは旧約聖書でも明らかにされています。預言者は神に代わって神のことばを人々に伝えます。また、王は神に代わって人々を治めます。そのどちらも神の一方的な選びによって任命されました。しかも、能力の有無や血筋といった何らかの条件によって選ばれていません。ただ神のみこころによって選ばれ任命されたのです。ですから「わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。」これはイエスを通した神のみこころだから間違いはない、という宣言でもあるのです。それゆえ、このことばには使命の重大さと同時に神が選んだという安心もあるのです。


 ここでイエスはもう一度、互いに愛し合うように命じます(17節)。弟子たちはイエスと一緒にいる時はイエスから愛を受け取ることができました。しかし、イエスが地上から去ったあとは直に受けとるのは不可能です。だから互いにイエスの愛を現すことでイエスの愛にとどまれるのです。先程申しましたように、イエスの友、同労者としてこの世を生きる時、イエスゆえの辛さがあります。それはイエスから引き離して神以外に頼らせようとする力になります。ですから、弟子をはじめとする私たちクリスチャンは互いに愛し合う共同体として生きることが何よりも大切なのです。今日こうして一緒に礼拝するのも共同体として生きるために行っているのです。


■おわりに

 最後に友についてお勧めをします。ギリシア語「友」ということばは「近しい/親愛/好き」という感情を持つ相手に用います。敵対者とか嫌っている者に「友」は使いません。これが「無償の愛」と呼ばれる「神の愛」との違いです。我が子を犠牲にするほどの神の愛は怒りの対象である私たちに向けられているからです。


 ただし「人が自分の友のためにいのちを捨てること」とあるように、イエスは感情だけでなく行動を伴うのが友だと言っています。アメリカの有名なシンガー「キャロル・キング」は「You've got a riend(邦題:君の友だち)」という名曲で友に対してこう言います。


「私の名前を呼ぶだけでいい そしたら私はどこにいても あなたのもとに走ってゆくわ

 冬でも、春でも、夏でも、秋でも...

 私の名前を呼ぶだけでいい そしたらすぐに行くわ あなたの友達ですもの」

(「The Best of Carole King」2007 Sony BMG 、対訳:肥田慶子)


 私たちは互いにこのような友の関係だからどんなときも安心できます。何よりもイエスが友としていてくださいます。すでにイエスは、私たちの身代わりに十字架にかかってくださいました。その上で、私たちを同労者として選んでくださり、イエスのために生きる私たちを友として助けてくださいます。私たちが悩むとき、苦しいとき、悲しいときにイエスを呼べば、イエスが私たちを覆い辛さを担ってくださるのです。この事実を知っているから私たちはイエスにとどまっていられるのです。

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