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木村太

9月13日「父なる神と子なるイエス」(ヨハネの福音書5章19-29節)

・はじめに

 世界を見渡すと、国王が子どもに王位を譲る場合が多く、子どもは一夜にして国の最高権威者になります。ただし、歴史的に見れば国民のためを思ってと言うよりは、一族の権威や利権を維持するために子に譲るケースが目に付きます。イエスも「父なる神からすべての権威を与えられている(マタイ28:19)」と弟子たちに語っていますが、暴君のように人を虐げるためではありません。今日は、父なる神はどんな目的で何を御子イエスに与えたのかを見てゆきます。

Ⅰ.神はイエスを愛するが故に、ご自身の権威と能力のすべてを与えた(5:19-23)

 イエスは38年もの間、重い病を患っている人に「床を取り上げて歩きなさい」と命じ、そのことば通りになりました。ここでユダヤ人は「床を取り上げる」という労働を安息日に命令したことに怒りました。その上、イエスが神を自分の父と呼んで神を冒涜していると受け取り、イエスを殺そうとしています。しかしイエスはひるむことなく神を父と呼んで神との関係を彼らに語ります。

19節「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。」とイエスは言います。これはイエスが物事の判断や何かを行う能力を持っていないのでありません。独断ではなく、あらゆることにおいて父なる神を倣っているのです。言い換えれば、イエスと父は一体と言えます。すべての理解、判断、行動はイエス自身によるけれども、それらは神と全く同じなのです。

 なぜイエスが父なる神と一体になれるのか、その理由が20節と23節にあります。父が子を慈しむように、神はイエスを愛するが故にあらゆることの手本を示しました。だからイエスには誤り、不正、悪はありません。しかも神と同じ不思議なわざを人々に行うから、人はイエスを尊び信頼します。後ほど話しますが、イエスへの尊敬がイエスのことばを聞いて従うことにつながり、それが人の行く先を左右します。

 さらにイエスは「父なる神がこれよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。(20節)」と言います。イエスはこれまで病を治したり、言ったことがその通りになるなど、人が驚くようなわざをなしました。けれどもそれよりもはるかに驚くようなことを地上で明らかにするのです。それが次の言葉です(21-22節)。

 神は、墓に入り肉体が朽ちている死人でさえも、よみがえらせたい人をよみがえらせることができます。その能力、いわば死を支配できる権威をイエスに与えました。その上、さばき、すなわち人をよみがえらせて永遠のいのちか永遠の滅びかに判定する権威もイエスに与えました。これは神が判定を放棄したのではなく、どちらかに行く条件がイエスにあることを言っています。

 人のいのちを完全に支配する権威は神だけが持っています。申命記32:39にあるとおりです。

「今、見よ、わたし、わたしこそがそれである。わたしのほかに神はいない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、また癒やす。わたしの手からは、だれも救い出せない。」父なる神はそれをもイエスに与えました。なぜなら、私たちが人知を越えたわざを行うイエスを信頼し、イエスのことばに従い、「イエスがいのちを与えたいと思う者」のリストに入るためです。言い換えれば、「この人は永遠のいのちに行きます。」とイエスが私を判定してくださるためです。神がご自身の持つあらゆる権威をイエスに与えたのは、永遠の滅びに行くべき人間が永遠のいのちを得て、永遠に平安に生きるためなのです。そのために、人が直接聞いて、直接見て、直に触れる存在として神はイエスをこの世に送りまし。神にすればご自分に背く人間をそのまま放っておいて滅びに至っても全然構いません。神がこのようなことをなさるのは、ご自身がお造りになった人を大切にしているからなのです。

Ⅱ.イエスは永遠のいのちと人をさばく権威を与えられているので、イエスを信じる者は永遠のいのちを持っている(5:24-29)

 次にイエスは「いのちを与えたいと思う者にいのちを与える」このことが地上でどのようになされるのかを語ります。

 ①24節:ここには、どのようにすれば永遠のいのちを持てるのかが記されています。永遠のいのちを持つ者はイエスのことばを聞いて、イエスをこの世に派遣した父なる神を信じる者です。ただし、「聞く、信じる」は気持ちの状態ではなく「聞いて従う/信頼する」のように、ふるまいに現れることを求めています。そして「聞いて従い/信頼する」者は、すでに永遠の滅びである死からいのちに移っています。取り消しや変更は決してありませんから、永遠のいのちを持つ者は、さばき、すなわち永遠の滅びに行くことはないのです。

 ②25節:ここには、永遠のいのちを持つときがいつなのかが記されています。イエスは「死人が神の子の声を聞く時が今であり、それを聞く者は永遠のいのちを生きる」と言います。ここでの「死人」は墓に入った死者ではなく、罪故に永遠の滅びに定められている人間全員を指しています。つまり、神の子イエスのことばを聞いて従う時が、永遠のいのちを持てる時なのです。まさに、イエスを目の前にしているユダヤ人たちは、他の民族に先んじて与えられたチャンスなのです。そして、イエスが天に戻り地上での活動がなされない時代や地域では、イエスの証言である聖書を聞いて信じる時がいのちを受ける時になります。

 この2つは、滅びに向かう人がそれを免れて永遠のいのちに至るための唯一の方法です。それでイエスは「まことに、まことに、あなたがたに言います。」と言うのです。

 ではなぜ、イエスのことばを聞いて従う者は永遠のいのちを持てるのでしょうか。その理由が26-27節にあります。父なる神はイエスに2つのものを与えました。一つはイエスの中にある永遠のいのちであり、もう一つはさばきすなわち永遠のいのちか永遠の滅びかを判定する権威です。これらをイエスが持っているから、「いのちを与えたいと思う者にいのちを与えることができるのです。」繰り返しになりますが、私たちには二つの行き先があり、そのどちらかに行くのかをイエスがお決めになります。その判定が「イエスのことばを聞いて従うか」にかかっているのです。

 さて、イエスに聞き従う者はすでに永遠の死から永遠のいのちに移っています。ただし、それはまだ到来していません。飛行機のチケットを買って、出発を待っているようなイメージです。それでイエスは永遠のいのちがいつ到来するのかを明らかにしています。

28節「墓の中にいる者がみな」とあるように、すでに死んだ者のすべてがよみがえってイエスの声を聞く時が来ます。このイエスの声こそが「あなたは永遠のいのち/あなたは永遠の滅び」という判定のことばです。もちろんそのとき地上で生きている人もその声を聞きます。この声によって人はどちらかに行くのです。29節「善を行った者」すなわちイエスのことばを聞いて従った者は永遠のいのちに行きます。一方、「悪を行った者」すなわちイエスではなく悪を神として仕えた者は、さばきである永遠の滅びに行きます。

 その時がいつなのかをイエスは語っていませんが、具体的にはイエスが再び来られる時、いわゆる再臨の時にこのことが起きます(マタイ24:30,使徒17:31)。それゆえ、さばきの時が来るのを驚くのではなく、それに備えることが人にとって大事なのです。今、ユダヤ人たちは安息日の規則にこだわっているように、たくさんの規則を守っていれば永遠のいのちに入れると信じています。しかし、真実は違います。神が遣わしたイエスのことばを聞いて従うかどうかに、行く先はかかっているのです。だからイエスは身の危険があっても真実を語るのです。

・おわりに

 ベテスダでの池での出来事を振り返ります。イエスは長年床に伏している人に「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」と命じ、その通りとなりました。これはすべてを治める権威を神がイエスに与えたからできたのです。この奇蹟によって彼はイエスを尊敬し信頼します。その後イエスはこの人を見つけて「もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。」と言われました。このイエスのことばに従えば永遠のいのちに行きます。イエスがこれを口にできるのは、神が永遠のいのちとさばきの権威を与えたからです。

 人は神に背く罪のために例外なく永遠の滅びに行かなくてはなりません。これについては絶望しかないのです。けれども神は人を愛するが故に私たちが受けるべき怒りをイエスに与えました。さらに永遠のいのちとさばきの権威を与えました。それで私たちは、どうすれば滅びを免れて永遠のいのちに入れるのかをイエスのことばとわざを通して知り、イエスを信じて永遠のいのちを持っています。イエスによって私たちはすでに絶望から平安に移っているのです。。

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