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木村太

9月15日「先に眠った者たち」(テサロニケ人への手紙 第一 4章13-18節) 

■はじめに

 私たち人間は一人一人違った人生を送ります。けれども人生の終わりには全員が同じ「死」を迎えます。これは人間だけでなく生き物すべてに当てはまり例外はありません(伝道者3:19)。それゆえ、私たちは生きているときと同じように亡くなった方と接することはできません。会話も見つめ合うことも触れ合うこともできないのです。まさに、死は永遠の別れです。ただしクリスチャンには、この世では決して会えない悲しさがあると同時に、再び会えるという希望を持っています。今日は、クリスチャンにとって死とは何かを聖書に聞きます。

 

■本論

Ⅰ.イエスが再び来られたとき、イエスを信じる者はイエスと同じように死からよみがえる(4:13-15)

 パウロはクリスチャンの死を「眠っている人」と呼んでいます(13節)。ユダヤ人も日本人と同じように「死」を「眠る」という柔らかい言い方をします。しかし、パウロの場合は「死んでもよみがえる」ことを確信しているので、「死」をあたかも熟睡しているように捉えているのです。

 

 パウロは「死が眠りである」ことをテサロニケのクリスチャンは絶対に知って欲しいと、強く言います。というのも、彼らが死について真実をわかっていなかったからです。「あなたがたが、望みのない他の人々のように悲しまないため」とあるように、当時の人々は「人は死んだら終わり。決して生き返らない。死んだあとどうなるかもわからない」と「人の死」を捉えていました。だから、死に対しては何の希望もなく、ただ悲しみだけがあるのです。

 

 テサロニケのクリスチャンも、教会の仲間の死を前にして希望なく悲しんでいました。おそらく、彼らは「永遠のいのち」とか「イエスが天に住まわせるために迎えに来る」を信じていたでしょう。けれども、イエスが迎えに来る前に死んでしまったらどうなるのかを知らずにいたので、混乱や悲しみがあったのです。

 

 それでパウロは「死を眠り」と言える理由を語ります(14節)。イエス・キリストを救い主と信じている者は、ユダヤ人イエスが十字架で死んで、三日目によみがえった事実を信じています。彼らを教えたパウロ自身がその目撃者です。であるなら、神はイエスと同じように、「イエスにあって眠った人たち」すなわち亡くなったクリスチャンをイエスと一緒に連れてくるのです(14節)。「連れて来る」というのはもちろん生きているから連れて来ると言えるのです。「運ぶ」とか「持って来る」ではありません。キリストを信じた者は死で終わらなく、永遠のいのちを持つから生きているのです。

 

 それゆえ「生きている私たちは、主の来臨まで残っているなら、眠った人たちより先になることは決してありません。(15節)」と言えるのです。「主の来臨」すなわち主イエスが再びこの世に来られた時、生きているクリスチャンはイエスとともに天の御国に迎え入れられます。その時、先に眠った者たちもイエスとともに連れて来られて御国に入ります。だから、「先になることは決してありません。」とあるように、生きている者だけが特別な恵みを受けるといった有利とか優先はないのです。このことから「主の来臨前に死んだ者はどうなるだろう」という不安や、「私は死んだらどうなるのか」という恐れから解放されるのです。

 

 イエスはご自身と人の死との関係についてこう言いました。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。(ヨハネ11:25)」イエスはご自身を信じる者に、「死んでも生きる」という、この世では絶対にあり得ないことを約束しました。そして、このことを自ら証明しました。それが十字架刑での死、墓への埋葬、3日目のよみがえりです。言い換えれば、イエスご自身が「死が眠り」であることを明らかにしたのです。イエスは「死んでよみがえった人」の見本です。ですから、たとえイエスの来臨前に死んだとしても、私たちもイエスと同じようによみがえるのです。

 

Ⅱ.イエスが天から降りて来たとき、死んだ者はよみがえって生きている者と合流し、イエスとともにいつまでも生きる(4:16-18)

 続けてパウロは、主イエスの来臨のときに眠った者たちがどのようにして連れて来られるのかを具体的に話します。

 

 イエスは、天の御国でクリスチャンが住むところを準備したら迎えに来る、と約束しました(ヨハネ14:1-3)。それが主の来臨であり、キリスト教用語で再臨と言います。ただし、主イエスは何の前ぶれもなしにやって来るのではありません。「号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響き」とあるように、何らかの合図があってやって来ます(16節)。ちょうど、王様が公に姿を現す時に、おでましの号令と楽器演奏があるようにです。さらに来臨をきっかけにして、まず「キリストにある死者」すなわち来臨前に死んだクリスチャン」が眠りから立ち上がるごとくよみがえります(16節)。

 

 その次に来臨の時にこの世に生きているクリスチャンが空中に引き上げられます(17節)。「彼らと一緒に」とあるように、死からよみがえった者たちも一緒です。ここでパウロが「生き残っている私たち」と言うのは、来臨の時まで死なないのではなく、来臨が間近にあることに期待しているからです。両者は一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会います。「雲に包まれる/空中で」は神がそこにおられることを意味しますから、神がおられる中で、すべてのクリスチャンが主イエスに会い、その後(のち)いつまでもイエスと一緒に生きます。

 

 ここで2つのことを付け加えておきます。

①来臨をきっかけにして、まず「キリストにある死者がよみがえる」その次に「生き残っている者が、彼らと一緒に引き上げられる」がなされます。これはあくまでも順序であって、時間的には同時になされます。現代科学では説明できませんが、時間と空間に束縛されない神はできるのです。ですから、眠った者と生きている者とでは優劣がありません。

②「空中で主と会う」の「会う」は「出迎える」を意味します。つまり、イエスはすべてのクリスチャンを歓迎してくださるのです。神そしてイエスが「人が救われるの」をどれほど喜んでいるのかが伝わってきます。

 

 パウロは「クリスチャンの死について」そして「彼らと来臨のときに生きている者との関係について」テサロニケの人々に語りました。

・クリスチャンの死は死ではなく眠っていること

・イエスの来臨においてすべてのクリスチャンがイエスに会うこと

・そののち、イエスと一緒に永遠に生きること。すなわち、もう二度と別れることはない。

 

 この真実ゆえに、この世では決して会えない悲しみはあるけれども、互いに元気づけることができるのす(18節)。ただし、これらはすべて神のあわれみから与えられているのを忘れてはなりません。私たちは本来、死んだら終わりであり、よみがえりはありません。まして、いつまでもイエスと一緒に生きるのはあり得ないのです。けれども、神はそんな私たちをかわいそうに思い、我が子イエスのいのちと引き換えに、私たちを助けてくださいました。だから私たちは神を崇めながら、すでに眠った方との再会を待つのです。

 

■おわりに

 日本でも人の死を「永眠」「とわの眠りについた」と言います。この言葉には「決して目を覚まさない」という死のとらえ方が反映されています。それゆえ、死は永遠の別れとなるから、私たちは深く悲しむのです。苦しみや辛さをともにした間柄や長く一緒だった方であればなおさらです。

 

 けれどもイエスのよみがえりを信じる者にとって、死は永眠ではなく永遠の別れでもありません。この世では決して会えませんが、イエスが再び来られたとき私たちはすでに眠っている方々とお会いできます。再会だけでなく、アブラハムやパウロのように聖書の人物ともお会いできます。そして、神のおられる天の御国でイエスと一緒に永遠に平安を生きるのです。もう二度と離れ離れにはなりません。私たちは死を悼み悲しみます。しかし、再会と天の御国という希望があるのです。

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