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木村太

9月18日 「神に求める」(マタイの福音書7章7-11節)

■はじめに

 日本のことわざに「苦しい時の神頼み」というのがあります。広辞苑には「平素は神を拝まない者が、困ったときにだけ神の助けを頼みにすること」と説明されています。私たちもこのことわざに近いものがあります。例えば「自分の力ではどうにもできない」とか「自分にとって大問題」のときは必死になって神に祈ります。けれども、そうでないときは神に頼らないことがあります。私たちも神を都合良く使っているのではないでしょうか。今日は神に求める際の心構えについてみことばに聞きます。


■本論

Ⅰ.「求める」とは言葉によって神に訴え続けることである(マタイ7:7-8)

 「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。(マタイ7:7-8)」


 イエスは弟子たちに必要なものを求める方法について語りました。私たちの願い事は大きく2つに分けられるでしょう。一つは食べ物や金銭、時間など物質的なものです(これを欲しい)。もう一つは健康、人間関係、社会情勢といった状況です(こうなって欲しい)。


 そこでイエスは、8節のようにどんなものでも神が与えるから神に求めなさいと命じています。ただし、「神は心の中までご存じだから、言わなくても大丈夫」ではありません。「口で求める、目で探す、手でたたく」のように自分から神に向かって願い出るのです。その手段が神への祈りです。イエスも「主の祈り」の前置きで、「だからこう祈りなさい(マタイ6:9)」と言いました。ここでの祈りは黙祷ではなく、ことばに出すことですから、ことばによって神に乞い求めることをイエスは命じています。


 さらに7節には求め方について2つのポイントが含まれています。

①求める、探す、たたくはいずれも「~し続ける」という文法になっています。つまり、1回で終わりではなく、繰り返して求めるのです。

②求める、探す、たたくは次第に求め方が強くなっています。ですから、与えられるまでねばり強く乞い求める姿を現しているのです。見方を変えれば、神は必死さを求めるのです。(病院の例)


 神はあらゆる願い事を祈りを通して明確な言葉によって繰り返しねばり強く求めなさい、と私たちに命じています。このことは、「どんなことでも神にはできる」という神の全能、そして「神は必ず応えてくださる」という神への信頼を明らかにしているのです。「これは願っても無理」とか「昨日祈ったけど何にも変わらない」だから神に願うのをあきらめるというのは、私たちが神を小さく見ているからなのです。「求め続ける。探し続ける。たたき続ける。」これは全能なる神に全幅の信頼を置いているからこそできるのです。


Ⅱ.神は求める者に良いものを与えてくださる(マタイ7:9-11)

 8節に「だれでも受け(取り)、だれでも見出し、だれでも開かれる」とあります。どうして神はそのように応えてくださるのでしょうか。その理由が9-11節にあります。


 「あなたがたのうちのだれが、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。(マタイ7:9-11)」


 イエスは「求めと応え」について、まず人の親子関係から説明します。パンと石、魚と蛇は似て非なる物で、子どもの要求とは全く違います。しかも、石や蛇は食べたら害になります。ですから「~でしょうか。」の答えは「石を与えるでしょうか。いやそれはありえない。蛇を与えるでしょうか。いやそれはありえない」となるのです。親は子どもを大切にするから子どもの必要に応えるのです。


 では天におられる父なる神と子、すなわち神と私たちクリスチャンの間はどうなのでしょうか。11節「あなたがたは悪い者であっても」とあるように、神に比べれば人には罪がありますから悪い者・劣った者です。それゆえ、子どもを思いやらず自分の都合を優先してしまいます。児童虐待とかネグレクトはその代表ですが、そこまで至らなくても自分のことは一生懸命なのに子どものことはいい加減になる場合があります。


 であるなら、神よりも悪く劣った人間の父が子に良いものを与えるのであれば、なおのこと神は子に良いものを与えるのは当然と言えます。なぜなら聖、義、愛において神は完全ですから、人間の父よりもはるかに私たちを大切にするからです。


 ただし、私たちが神に求めたものがその通りになるとは限りません。11節で「親が自分の子どもに良いものを与える/天におられる父なる神が自分の子どもに良いものを与える」とあるように、求められたものが子どもにとって良いかどうかは親の判断によるのです。例えば、小学生が車を欲しいと繰り返しねばり強く願い求めても、親は決して買ってあげません。それは子どもにとって車が良いものではないからです。かえって子どもや周囲に害を与えるからです。


 同じように私たちの求めるものが果たして良いのかどうかも神が判断します。ですから7節に従って祈り求めても、神から与えられなかったり、あるいは違うものが与えられることがあるのです。私たちの人生においてはがっかりすることもあれば、願ってた以上のこともあります。どちらにしても「神はすべてご存じで私たちに最も良いものをくださっている」と信じることが大切です。


Ⅲ.神はご自身の栄光のために私たちの求めに答えてくださる(ヨハネ14:13)

 ではなぜ神は良いものを与えてくださるのでしょうか。ヨハネの福音書14:13にこうあります。


 「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです。(ヨハネ14:13)」


 クリスチャンはイエスの名によって、すなわちイエスがこの願いを神にとどけてくださると確信して祈ります。神はイエスを通して願い求めるものは何でも与えてくださいます。それは物質的な物であろうが状況であろうが、たとえ私たちの目には不可能と思われることでさえも、与えてくださいます。


 ただし、与える目的は父が子すなわちイエスによって栄光を受けるためです。求めた人を満足させるために与えるのではありません。例えば、不治の病が治ったとか絶対に手に入らない物が与えられたというように、イエスを通してあり得ないことが与えられたときは、その事実が神の存在と神の不思議なみわざを人々に知らせ、人々は神を崇めるようになります。イエスによる不思議なわざはこの典型であり、イエスのわざを通して人々は神を崇めました。


 違う見方をするならば、もし求めたものが神の栄光を表さないとか、神の名を汚すのであれば与えられないのです。例えば「ウソをつくために知恵をください」と願っても、その知恵が与えられることはありません。もし、この願いに知恵が与えられたら、その知恵は自分の罪を明るみに出し、罪の悔い改めに向かわせ、神を崇めるものになるでしょう。


 さらに言うなら「父が子によって栄光をお受けになるために、良いものを与える」ここには与える物と与える時が神の支配にあることを含んでいます。このことをヨハネはこう手紙に書いています。


 「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。(Ⅰヨハネ5:14)」


 神は私たちの願いをすべて聞いています。しかし、その願いがその通りになるかどうかは「神のみこころに従っている」ことが条件です。先ほど申しましたように、願いが叶うかどうかの主導権は神にあるのです。なぜなら神の栄光がすべての目的だからです。


 神に繰り返し粘り強く祈り求めたとしても、それと同じものが与えられるかどうか、そしていつ与えられるかどうかは、神の判断に任せられています。具体的に言うならば、直ちに与えれる場合、時間が経ってから与えられる場合(今はそのときではない)、まったく与えられない場合(あなたに必要なのはそれとは違う)があるのです。それゆえ私たちは、直ちに与えられないときには「今私にそれが必要なのかどうかを教えてください。私にとってそれが神の栄光になるのかどうかを教えてください。」と祈るのです。ただし、神は私にとって最も良いものを最も良いタイミングで与えてくださる、という確信を忘れてはなりません。


■おわりに

 「求め続けよ。探し続けよ。たたき続けよ。」と命じるように、祈りを通して語られる私たちの願いを神は確実に聞いています。そしてご自身の栄光のために、神が私たちを顧みて良いものをくださるのです。

神は我が子イエスを犠牲にしてまで、私たちを永遠の滅びから永遠のいのちに救ってくださいました。それほどまでに神は私たちを大切にしてくださっているのです。加えて、イエスを信じる信仰によって「願いが確実に届く」という特権、「良いものを受け取れる」という特権を神は私たちに与えてくださいました。

 求めたものがその通りにならないとき、私たちは「どうして」と神に訴えますが、それで終わりではありません。「神はイエスを犠牲にするほど私を大切にしているから大丈夫」という思いがあるからです。

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