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木村太

9月20日「イエスの証言は真実」(ヨハネの福音書5章30-40節)

・はじめに

 中学や高校の世界史ではキリスト教に触れますが、その際、イエス・キリストを実在の人物として扱っています。また西暦を使っているのは、イエスがこの世に人として生まれたことを認めている証拠です。同じように「汝の敵を愛しなさい(マタイ5:44)」「人にしてもらいたいことを他の人にしなさい(マタイ7:12)」というイエスのことばは、クリスチャンでなくても受け入れられています。一方で「イエスは死んで3日目によみがえった」「私を信じる者は死んでも生きる(ヨハネ11:25)」というのは疑いを持たれることが多いです。同じ人物でも真逆の反応です。そこで今日は、イエスのことばや行いはなぜ真実と言えるのかについて聖書に聞きます。

Ⅰ.バプテスマのヨハネがイエスの正しさを明らかにした(5:30-35)

 ユダヤ人は、イエスが自分を神と等しくしていることに怒りました。それに対してイエスは、ご自身が神と同じ権威を持っていること、特にさばきといのちを与えるという神だけが有する権威について証言しました。そして証言の正しさを説明します(30節)。

 ここで扱っている「さばき」は永遠の死か永遠のいのちかの判断ではなく、善と悪、正と不正、聖と汚れの判断を言っています。イエスには判断する能力や知識がないのではありません。「聞いたとおり」とあるように、自分の判断よりも神の判断を優先しているのです。なぜならご自身を地上に派遣した父なる神のみこころを第一にしているからです。イエスは神の操るロボットではなく、ご自分の意志を持っていますが、自分にこだわることなく神に聞き従っています。だから、「わたしのさばきは正しい」と言えるのです。

 ここでイエスは自分で自分を証言するやり方に触れます(31節)。これはイエスがウソをついているのではありません。当時、ユダヤの法律では2~3人の証言がなければそのことがらは真実ではないと定められていたからです(申命記19:15)。それで32節「わたしについては、ほかにも証しをする方がおられます。」とあるように、イエスは真実な神の証言を用いてご自身の正しさを明らかにします。

 ところが不思議なことにイエスはまず、バプテスマのヨハネの証言を取り上げました(33-35節)。「わたしは人からの証しを受けません」とイエスが言うように、父なる神の証言は絶対に確かで絶対に正しいですから、不完全な人間の証言は必要ありません。けれども「あなたがたが救われるために」とあるように、真理すなわち自分についてのヨハネの証言が正しく、そしてその証言によって人が救いに至っているからです。人々がバプテスマのヨハネのことばを聞いて彼を信頼し、そのことばに従ってイエスを信じれば、それはそれで良いのです。人が救いに導かれるのであれば、イエスについての正しい証言を、イエスではなく人から聞くのも有効なのです。

 ただし、35節「ヨハネは燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間」とイエスは言います。バプテスマのヨハネの証言は人を救いに導くともしび・喜び・希望ですが、それはユダヤ人限定であり、しかもヨハネが生きている間だけのともしびです。一方、神の証言は空間的には全世界であり、時間的には期間限定ではありません。つまり、人がイエスを証言するのは重要で有効だけれども、神の証言の方が優っているのです。

 現代の私たちもバプテスマのヨハネのようにイエスのこと、キリスト教のこと、クリスチャンの生き方などを人に語ります。また、人から聞きます。その際「彼は真理について証ししました。」とイエスが語ったように、気を付けるべきは「イエスについて正しく語られているか」と言うことです。言葉を加えるならば、イエスの証言である聖書に基づいているかどうかが大事なのです。「イエスのこと」と称して自分を語るのではなくて、聖書を語ってゆきましょう。

Ⅱ.父なる神が「イエスのわざ」と「ことば(聖書)」によってイエスの正しさを明らかにした(5:36-40)

 次にイエスは父である神の証言について語ります(36節)。「父が与えてくださったわざが、すなわち、わたしが行っているわざ」とはイエスが人に行っている働きですが、ここでは奇蹟と呼ばれている働きを指しています。例えば、不治の病を治す、死者のよみがえり、悪霊の追い出し、自然の支配など、人知の及ばない働きです。つまり、神の力としか言いようのないわざ自体が、イエスが神の権威を帯びて地上に来た証拠なのです。ですからイエスという人物に疑いを持っていたとしても、イエスのわざを見て、イエスに神の権威があることを認めるのです。

 さらにイエスはもう一つの神の証言を明らかにします(37-38節)。イエスは、みことばすなわち神のことばがイエスを証ししていると言います。けれども人は神を見聞きできません。ではどうやってみことばを自分たちのうちにとどめることができるのでしょうか。実は彼らの目の前にいるイエスこそが神のことばを語る人なのです。30節で「わたしを遣わされた方のみこころを求めるからです。」とイエスが言うように、イエスは神のみこころと同じことばを語り、神のわざを地上でなしています。いわばイエスは神の代弁者なのです。だからイエスのわざを見て、イエスに神の権威があり、イエスは神と同一であることを認めるのが大事なのです。しかし、ユダヤ人はイエスが神と同一であるのを信じないから、イエスに語らせた神のことばを受け入れませんでした。

 ただし、ユダヤ人はイエスについての証言をすでに手にしています。神から直接聞いていないけれども、人間が理解できる形になったものがあります。それが聖書、この時代ではモーセ五書、預言書、詩篇といった旧約聖書です。ユダヤ人たちは、旧約聖書を持つことによって永遠のいのちを持てると思い、聖書を研究しました(39節)。例えば、「救い主はどのように来るのか」とか「義と認められるにはどうすればよいか」といったことです。

 しかし、「その聖書は、わたしについて証ししているものです。」とあるように、旧約聖書全体がイエスによる永遠のいのちを指し示しています。イエスは十字架の死からよみがえった後、エマオへの道すがら2人の弟子にこう語りました。(ルカ24:27)また使徒の働きでは、ピリポがエチオピアの宦官に、イザヤ書53章はイエスを言っていると解説しました(使徒8:26-40)。まさに、旧約聖書に書かれていることがらがイエスによって起きているのです。聖書の中にイエスを見出せば永遠のいのちにつながって行くのです。

 神は「イエスによる永遠のいのち」を人が使っている言語によって、ユダヤ人(イスラエル民族)に示しました。けれども40節「それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」とあるように、ユダヤ人は聖書からイエスを切り離してしまいました。「人は神になり得ない」というユダヤ教の大原則が彼らの目に覆いをかけたのです。

 神は、イエスのわざ、イエスのことば、イエスを記した聖書を用いて、イエスが神の権威を持ち、神のみこころをなしていることをユダヤ人に証言しました。けれどもユダヤ人においてはそれを信じる者と信じない者に分かれました。重たい病の人、遊女、取税人、悪霊に取り憑かれた人、異邦人など罪や汚れに定められ、ユダヤ人社会から見放されさげすまれた人々はイエスは真実であると信じました。いわば絶望を抱いている者がイエスを信じて永遠のいのちを手にしたのです。一方、律法学者、パリサイ人、祭司のように「自分が正しいというプライド」「自分の力で何とかなるという自信」これにこだわった人々は、イエスを信じないどころか、イエスは正しくない、イエスは悪だと決めつけました。神は人間の理解を越えたことをなさるお方、という認識と信頼が明暗を分けるのです。

・おわりに

 イエスは十字架で死に、三日目によみがえり、天に戻りました。その後は人の姿形を持って地上で活動していません。だから現代の私たちはイエスのわざやことばを直接見聞きできません。けれどもイエスが地上で何をしたのか、何を語ったのかを新約聖書で知ることができます。言うなれば、新約聖書を通してイエスのわざとことばを見聞きしているのです。

 それゆえ旧約聖書で描かれている救い主の有り様を、新約聖書のイエスに見出すのです。神はイエスの時代においてはイエスそのものによって、滅びを免れて永遠のいのちを受け取れる道を教えました。そしてイエスが再び来られるのを待つ時代においては、旧新66巻の聖書が救い主イエスを明らかにしています。神は我が子イエスを犠牲にして救いの道を備え、さらに私たちに理解できる方法で救いを教えてくださいました。すべては神の愛によるのです。

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