■はじめに
パウロはローマ人への手紙で「信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。(ローマ10:17)」と語りました。確かに、どんな人も神やキリストによる救いを知らなければ、信じる意思は生まれません。ただし、誰でも知ることから信じることにつながるわけではありません。もしそうだとしたら、福音を聞いた人がすべてキリストを信じるはずです。でも、福音書においても現代社会においてもそうはなっていません。そこで今日はラハブの出来事から、人が神を信じる道筋についてみことばに聞きます。
■本論
Ⅰ.ラハブの信仰は神を知ることから始まった
ラハブの話に入る前に、イスラエル民族とカナンについて触れておきます。イスラエルの神はモーセに、「乳と蜜の流れる地」と呼ばれる肥沃な土地カナンに入らせる約束をしました(出エジプト3:8)。ただし、カナン定住に当たって、神はカナン人やヒッタイト人といった先住民族を聖絶するように命じました(申命記7:1-6)。なぜなら先住民族は彼ら自身の神々を崇めているため、彼らをそのままにしておけば、イスラエル民族も他の神々を崇めることにつながり、イスラエルの神に背くことになるからです。神はイスラエルの民が信仰を持っていても、魅力的な異教の誘惑に弱いことを知っていたのです。それで、聖絶すなわち神に属さない人々を滅ぼすように命じました。ですからエリコに住んでいたラハブも当然聖絶の対象です。
さて、本題に入りましょう。まず1節を見ましょう。新しいリーダーヨシュアはカナン征服をエリコという町から始めました。エリコはこの地域の重要な町であり、ここを落とせばこの付近一帯を制圧できます。ただし、エリコには堅固な城壁があり簡単に落とせないので、彼は2人の斥候(スパイ)を送り偵察させました。そして2人の斥候は人目に付くことなく、怪しまれないように、ラハブという遊女(売春婦)の家をねぐらに選びました(1節)。
ところが彼らの侵入はすでに見つかっていました(2-3節)。しかも偵察目的やラハブの家という場所までも知られていました。けれども、ラハブはことば巧みにエリコの兵隊をうまく追い返し、2人の斥候をかくまい助けました。なぜ、危険を犯してまでもイスラエルの斥候を助けたのか、その理由を彼女は語ります。それがまさしく彼女の信仰告白でした。
ラハブはエリコの兵隊が去ってすぐ、2人に住民の状況を伝えます。ラハブは、エリコの住民が神と神の民であるイスラエル民族を震えおののくほど恐れていると伝えます。なぜならエリコの住民は、イスラエル民族が神の力によって何をなしてきたのかをすべて知っているからです。神が海を分けてイスラエルの民を助け、さらに絶対に勝ち目のないシホンとオグの戦いを神が勝たせた事実を聞いていたのです(9-10節)。
「イスラエルの神、主は人知を遙かに越えた力を持っている/イスラエルの民にはこの神がともにいる」これを知ったからこそ、ラハブを含めてエリコの住民はどんなに頑丈な城壁があっても、イスラエルが攻めてきたら間違いなく自分たちは皆殺しにされる、と震えおののくほど恐れているのです。まさにパウロが語ったように、事実を見聞きすることで神の存在とその力を認める、ここから信仰が始まります。
Ⅱ.ラハブは畏れによってイスラエルの神を主と呼び、唯一まことの神と認めた
ラハブはもう一度、心の様子を語ります。ラハブはイスラエルの神を「あなたがたの神、主」と呼んでいます(11節)。「主」とは、目に見えるもの、見えないものすべてをこの方が支配し、このお方以外はそのしもべであることを意味します。つまり、ラハブはイスラエルの神があらゆるものを支配し、それに何ものも抗うことはできないと認めているのです。
さらに、ラハブは「主は、上は天、下は地において神であられるからです。」とも言っています。カナンにもバアルやダゴンなど様々な神がありました。しかし、天と地すなわち、あらゆるところにおいて、ラハブが神と認めるのは「イスラエルの神」だけなのです。それゆえ、イスラエルの民ではない自分は間違いなく滅ぼされる、という恐れが生まれているのです。
この世界に起きた事実から神の存在と神のわざを知って信じた者には、神への畏れが生まれます。具体的に言うならば、神に対する恐ろしさと圧倒的な力に対するおののきです。人は誰でも自分の能力や社会の仕組みといった目に見えるものの中で生きていると思っています。けれども、神を知り信じた者は、「目には見えないけれども神の支配の中で生きている」これを信じる者に変えられます。聖書に記されている出来事あるいは自分に起きた出来事、そういったあらゆる物事が神のわざであると疑いなく信じた者には神への畏敬の念が生まれるのです。
Ⅲ.ラハブはイスラエルの神に一族のいのちを託した
ラハブは2人の斥候にある訴えをします(12-13節)。12節「誠意を尽くす」は「あわれむ」も意味します。もし、このままだとしたら、イスラエルが攻めてきても家族が助かる見込みはありません。それで、彼女は「私があなたがたにあわれみをかけたように、あなたがたも私にあわれみをかけてください」と訴えるのです。また12節「【主】にかけて私に誓ってください。」ともあります。ラハブはイスラエルの人々を主が助けたように、主を信じる自分を主は助けてくださると信じているから、「主にかけて」と口にしたのでしょう。
つまり、ラハブは自分のいのち、さらには助かった後(のち)の人生を主に託したのです。「【主】は、上は天において、下は地において、神であられるからです。」とあるように、神は見えるもの見えないものすべてをご支配している、とラハブは信じているから、彼女はいのちを神に委ねました。
神はあらゆるものを完全に支配し、かつ人知の及ばない力を持っています。だからこそ、神を主と信じる者は、神のあわれみを信じて、自分のいのちを神に託すことができるのです。神はヨシュアに「強くあれ。雄々しくあれ。」と励ましましたが、これも「すべてをあなたに託します」という従順によって生まれてくるのです。
■おわりに
今日はラハブに見る信仰と題して、3つのことを語りました。「ある出来事を通して、神の存在とその力を知り認める/その神を恐れ、主と認める/この神にいのちを託す」これがラハブから私たちに示された信仰です。さらに言うならば、ラハブのことばには信仰を構成する3つの要素「知識、感情、意志」が含まれています。このことをパウロはこう言っています。「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。(ローマ10:10)」まさにラハブはイスラエルの神を心で信じて、それをことばで告白したから聖絶という滅びを免れました。
実は、人は本来例外なく聖絶の対象者です。ただし、人の手によって滅ぼされる聖絶ではなく、神が直接手を下す聖絶です。なぜなら、最後の審判においては聖である者、すなわち神に属している者だけが無罪判決となり神の国に入れるからです。神の民、イスラエル民族が神の国カナンに入り、神の民ではない者が滅ぼされる、というのはやがて来る真の聖絶と天の御国につながっているのです。
ですから、キリストの時代にあって信仰を持つ者、すなわち福音を聞いてキリストによる救いを知り、神を畏れてキリストを救い主と信じ、圧倒的な支配者である神に身を委ねた者は聖絶という滅びを免れて、天の御国に入れるのです。神はご自身の子キリストを犠牲にして滅びを免れる道を用意してくださいました。さらに、聖霊を通して人に聖書を書かせて、すべての人に滅びを免れる道を明らかにしてくださいました。ここに神の計り知れないあわれみがあります。
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