■はじめに
イエスはご自身を信じる者に2つのものを約束しています。一つは永遠のいのち(ヨハネ11:25-26)、もう一つは平安です(ヨハネ14:27)。その一方で、先週宣教したように「何もかも願い通りになる」とは教えていません。違う言い方をするなら、「自分の思った通りの人生になる」というのをキリスト教は保証していません。ですからイエスを救い主と信じても「生きる気力を失なわせるような出来事」が起こり得ます。けれども私たちは不思議なことに、どん底にあっても完全な失望には至りません。今日は詩篇145:14を中心に、「なぜ私たちは希望を失わないのか」について聖書に聞きます。
■本論
Ⅰ.神に信頼していても気力を失い、生きる希望を見失いそうになるときがある(倒れる者、かがむ者)
詩篇145篇の表題に「ダビデの賛歌」とあるように、この詩篇は神をほめたたえることばで満ちています。8-9節で告白されているように、ダビデはこれまでの経験から神である主がどのようなお方であるかをわかりました。それゆえダビデは神を様々なことばでほめたたえるのです。ただし「どんな状況で神に助けられたのか」に、この詩篇はほとんど触れていません。そんな中、唯一明らかなのが14節です。
「【主】は倒れる者をみな支えかがんでいる者をみな起こされます。」
ダビデは「倒れる者/かがんでいる者」に神があわれみによって助けてくださったことを記しています。それ程このことが心に深く刻まれているからです。では「倒れる者/かがんでいる者」は人のどういう状態を表しているのでしょうか。
①倒れる者:「倒れる」とは「崩れ落ちる」様を表し、精神的に生きる気力が失せている状態です。命に関わる病気、人生を一変させる病気や事故、親しい人の死、経済的な危機、甚大な自然災害、差別・迫害・戦争、こういった出来事が続けざまに襲って来たり長く続くと人は生きる気力を失ってしまいます。「私にはもう生きる力がありません。」となるのです。聖書の人物では、立て続けに試練に襲われたヨブが、まさにこの姿です(ヨブ3:11,26)。
②かがむ者:「かがむ」とは「外部からの力で身を曲げさせられている」様を表しています。これは自分の背負っている荷(役割、努め)が重すぎて、「私には無理です。もうできません。」というような、生きるのに疲れた状態です。別な見方をすれば、「見通しがまったく立たない」あるいは「虚しさしか感じないとき」と言えるでしょう。聖書の人物では、自分の働きに虚しさを覚えたエリヤがこの典型でしょう。
ダビデもヨブもエリヤも「神に信頼する者/神の前に正しい者」として神が認めています。でも、その彼らでさえ望みを失いそうなときがありました。であるなら、神を信じている現代の私たちが倒れたり、かがんだりしても不思議ではありません。「神様。私はもう限界です。」と嘆くときは誰にでもあるのです。
Ⅱ.イエスは体を起こさせ、顔を上げさせて、生きる望みを与える
ところが、神は「倒れる者/かがむ者」を放ってはおきません。神はご自身を恐れ、愛し、救いを求める者を助けます。(145:15,18-20)いつくしみの神は、倒れる者をつっかえ棒のように支え、あるいは、かがむ者の体を引き起こします。その結果、人は顔を上げ目を上げて、希望に目を向けます。
では、どうやって神は「倒れる者をみな支え かがんでいる者をみな起こせる」のでしょうか。今回はイエスが持つ3つのご性質から解説します。
(1)いつもともにいる (マタイ28:20, 詩篇121:4)
マタイの福音書28:20
「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」
詩篇121:4
「見よ イスラエルを守る方はまどろむこともなく眠ることもない。」
「いつも」とは一瞬の隙もなく、かつ永遠にという意味であり、また「ともに」とは「傍ら/側(そば)」を意味します。私たちがどこにいても、どんな時間帯でもイエスは私たちのそばにぴったりと寄り添っています。また、詩篇121:4のように、私たちから目を離すことはありません。だから、倒れても、かがんでもすぐに応じてくださるのです。
(2)人の痛みに共感する(へブル2:18,4:15)
ヘブル人への手紙
「イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。(2:18)」
「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。(4:15)」
イエスは人として生まれ、人として育ちました。その中で、庶民の日常的な苦しみを見聞きし、経験しました。それだけでありません。十字架刑では、想像を絶する肉体の激痛を受けました。同時にバカにされ侮辱されて精神的にも想像を絶する苦しみを受けています。それは「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。(マタイ26:39)」と嘆くほどでした。さらに、地上に生きる者の中でキリストだけが味わった苦しみがあります。それは一度ではありますが、「父なる神に捨てられた」という苦しみ、完全な孤独という苦しみです。
イエスは人が経験するあらゆる苦しみ、悲しみ、痛み、辛さ以上のものを経験したからこそ、倒れる者、かがむ者の心を理解し共感できるのです。「神様、わたしにはできません」という私たちの気持ちをわかってくださいます。なぜ倒れそうになっているのかを、なぜかがんでいるのかをわかっているから、その人の苦しみを一緒に担えるのです。
(3)イエスはすがる者を見捨てない(ルカ8:43-44)
ルカの福音書
「そこに、十二年の間、長血をわずらい、医者たちに財産すべてを費やしたのに、だれにも治してもらえなかった女の人がいた。彼女はイエスのうしろから近づいて、その衣の房に触れた。すると、ただちに出血が止まった。(8:43-44)」
イスラエルの民がカナンの地に入るとき、神はヨシュアにこう言いました。「わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。(ヨシュア1:5)」それゆえ父なる神と同じご性質を持つイエスもご自身に助けを求める人を見捨てませんでした。例えば、12年間長血を患っていた女性が群衆にもまれながらも必死になってイエスの衣を触ったとき、彼女の病は治りました。他にも盲人バルティマイ(マルコ10:46-52)やカナン人の女(マタイ15:21-28)など、「このお方は必ず何とかしてくださる」と信じて、すがる者をイエスは助けました。決して見捨てたり、見放しはしません。約束したとおり平安を与えてくださるのです。
人は「倒れている者/かがんでいる者」を見捨てる性質を持っています。「関わる余裕がない/自分に関係ない人/関わったら面倒なことになる/困っている気持ちがわからない/誰かが何とかしてくれる/自分を苦しめる者だから」たくさんの理由を作って助けなかったり、見て見ぬ振りをしてしまいます。
けれどもイエスは違います。イエスは「いつも共にいて、私たちに共感し、見捨てない」お方だから「倒れ、かがんでいる人」を引き起こし、顔を前に向けさせ、目を上げさせることができるのです。
■おわりに
さて、もし助けるのが人であれば動きを見て言葉を聞けるから、自分を支え引き起こしているのがわかります。一方、イエスの場合は目には見えないので、どのように助けてくださっているのか具体的なことはわかりません。けれども、私たちは「今、神が支えてくださっている」と知ることができます。例えば、「突然、思いも寄らない人から慰めのことばをもらう/助けてくださる人が現れる/どうにもならない事態が解決する(病が治る、経済的危機の脱出)」そんなときに私たちはイエスの支えを実感します。中でも、最も多いのは私たちの心に神のなぐさめが直接働くときでしょう。
祈りの中で、瞑想している中で、聖書を読んでいる中で、説教や他の人の証しを聞いている中で、私たちは「イエスがともにいてくださるから大丈夫だ」と気づくときがあります。あるいは、神が自分を大切にしてくださっていることに気づき、涙があふれるときがあります。目の前の状況はひとつも変わりないのに、心が安らぎ、「何とかなる」と確信できるときがあります。祈る前と後では、まるで別人のようになるときがあります。これが、イエスが体を起こして前を向かせてくださったしるしです。不安から平安に、恐れから喜びに、憎しみからいつくしみに、失望から希望に、心が変わった事実がイエスが支え引き起こした証拠です。
私たちの人生には「いつまでですか/どうしてですか/もう無理です」と神に嘆くときがあります。これは全てのクリスチャンにありえることなのです。でも決して見放さないイエスがともにいてくださるから、私たちは倒れても支えられ、かがんでいても引き起こされます。それゆえ「必ず、神が何とかしてくださる」という希望を失うことはありません。倒れたまま、かがんだまま、嘆いたままでは決して終わらないのです。「夕暮れには涙が宿っても朝明けには喜びの叫びがある。(詩篇30:5)」「あなたは私のために嘆きを踊りに変えてくださいました。(詩篇30:11)」 これが私たちクリスチャンの人生です。
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