■はじめに
以前申しましたように、キリスト教においてクリスチャンの生活様式を縛るものはありません。何を食べても良いし、何を着ても良いし、何を趣味としても良いのです。だから見た目ではクリスチャンかどうか分かりません。ただし、すべてにおいて神の栄光を現すという目的をクリスチャンは持っています。それゆえ、世間とは異なる価値観で語ったり行動した時に「この人は普通の人とちょっと違う」と見られます。今日はこの世を生きる中で私たちはどのように受け取られ、その時私たちはどうするのか、このことについて聖書に聞きます。
Ⅰ.イエスは弟子たちがご自身のゆえにこの世から憎まれることを前もって伝えた(15:18-20)
イエスは地上を去った後、ご自身の働きを弟子たちに委ねます。そのため、イエスの愛にとどまるように、互いに愛し合うように、彼らの生き方を命じました。ただ、イエスと同じ活動をすれば、イエスと同じように苦難に遭うのは明白です。それでイエスはご自身を証しする者がこの世でどのような扱いを受けるのかを伝えます。
世すなわち罪に覆われイエスを神と信じない世の中は弟子たちを憎み虐げます(18節)。しかし、その仕打ちは弟子たちのせいではなく、イエスに由来しています。というのも、民衆はイエスが期待していたメシアではなかったのを失望して怒り、宗教指導者は自分たちに従わないばかりか神を冒涜したので怒っているからです。
もし、弟子たちがこの世と同じようにイエスを否定し、イエスを憎むような態度を取るならば、彼らは憎まれないばかりか世間に受け入れられるでしょう(19節)。けれども「わたしが世からあなたがたを選び出したのです。」とあるように、弟子たちはイエスによって選ばれイエスの代理人に定められました。
今、イエスとともに食事をしている11人の弟子たちは自分の意志でイエスにとどまり、イエスの弟子であり続けようとしています。しかし、真実は神がイエスに所属する者として彼らを新しくしました。だから彼らはイエスを信じ、「イエスは正しい」と主張するから憎まれるのです。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」とことわざにありますが、それと同じように憎むべきリーダーに弟子たちが与(くみ)しているから彼らも憎まれ、虐げられるのです。
20節「しもべは主人にまさるものではない」とあるように、教えもわざも威厳もイエスの方が優っています。どう見てもイエスがリーダーだからそれに従う者はイエスの仲間と受け取られます。それゆえ、イエスを迫害した人々は弟子たちをも迫害し、逆にイエスのことばを信じた者たちは弟子たちのことばも信じるのです。イエスに所属する者はイエスへの憎しみゆえに憎まれ、イエスへの賞賛ゆえにほめたたえられるのです。
現代の私たちもイエスに所属するイエスの仲間ですから、弟子たちと同じような扱いを受けます。例えば、「キリスト教の精神は愛だから教会の皆さんは優しい」と喜ばれることがあります。逆に「キリスト教は一神教だから、クリスチャンは他の宗教に対して寛容でない。ひとりよがり」と嫌がられることもあります。大事なのは喜ばれたり憎まれたりする結果ではなく、「クリスチャンだから」と見られることなのです。キリストを証ししているからこそ「他の方たちと違っているのはクリスチャンだから」と受け取られるのです。「キリストを信じる人は何か違う」これがイエスを知らせている証拠なのです。
Ⅱ.この世は「イエスを神と認めない罪」ゆえに弟子たちを憎む(15:21-27)
ここでイエスはなぜ世が弟子たちを憎むのかを語ります。21節「わたしの名のゆえに」というのは簡単に言えば「イエスに属しているゆえに」という意味です。ユダヤ人たちは弟子たちがイエスに属しているという理由で彼らを憎むのです。決して彼らが暴力や犯罪をしたからではありません。現代でも「○○の国から来ているから/○○の仕事をしているから」のように、その人そのものではなくその人の所属で判断するのと同じです。
もし、ユダヤ人がイエスの真実すなわち神から遣わされた事実を知っていたなら、弟子たちを迫害したり憎んだりせず、むしろ彼らを畏れて従うでしょう(21節)。これと同じような出来事が旧約聖書にあります。ヨシュア記を見ると、ラハブはイスラエル民族に働いた神の力を聞いて神を恐れ、神の民であるイスラエル民族をも恐れました。それで彼女はエリコ偵察の者を助け、エリコ陥落に貢献したから聖絶を免れました。ユダヤ人はイエスが神から遣わされた神の子と知らないからイエスを否んで憎み、それゆえに弟子たちを憎むのです。
そして「ユダヤ人たちが、父がイエスを遣わしたのを知らない」ことをイエスは非難します。イエスは「ご自身が父から遣わされ、父からのことばを語っている」と繰り返しユダヤ人に語りました(22-23節)。もし、イエスがこの世に来ないで、ユダヤ人に父から預かったことばを語っていなければ、イエスを憎み迫害しても罪ではありません。けれども彼らは確かにイエスのことばを聞いたのに、イエスを否定したから罪について弁解の余地はないのです。
さらにイエスはそれ以上に弁解の余地がないことを指摘します(24節)。イエスはユダヤ人に対して神からのことばを語っただけではありません。イエスはご自分以外には絶対にできないわざをユダヤ人に見せて来ました。その頂点が死んで4日経ったラザロのよみがえりです。イエスは父なる神にしかできないわざを行ったにもかかわらず、ユダヤ人はイエスを神と信じないばかりか、十字架で殺したのです。
イエスは確かにユダヤ人に語り、確かに驚くべきわざを行いました。けれども彼らは「神が人になるはずがない」という固定観念から抜け出せず、イエスを人として見ました。イエスではなく自分の知識や考えを優先したから、彼らの罪について弁解の余地はないのです。イエスに属する弟子たちを憎むのも「イエスを信じない」というユダヤ人の罪によるのです。
ただしイエスはこの事実についてこう言います(25節)。ユダヤ人がこうなることも神はご存じでした。イエスのことばを聞いてわざを見たとしても、イエスを信じないのが人の本性、罪ある姿だからです。つまり、弟子たちがユダヤ人から苦しめられるのは当然のことであり、驚き嘆き悲しむことではない、と弟子たちに伝えているのです。弟子たちへの心遣いと言えるでしょう。
現代はイエスが天に戻った後の時代ですので、イエスが目に見える姿でことばを語り、わざをなすことはありません。けれどもこの当時とは比べものにならない程、イエスの情報が世の中に与えられています。特に年中行事となっているクリスマスやイースターでは、「イエスとの関わり」を教会行事やインターネットなど様々な形で見聞きすることができます。けれどもそれを知ったとしても、世の中の常識や自分の考えを優先する人がほとんどです。これが罪に覆われた地上の姿です。だからこそ私たちは弟子たちと同じように、たとえ笑われたりバカにされたとしてもイエスを伝えるのです。イエスを証しする者をこの世は憎みますが、イエスは喜んでくださいます。
■おわりに
イエスは弟子たちの苦難を前もって語りました。ただし、その時は頼れるイエスは地上から去って
います。それでイエスはご自身に加えてもう一人の助け主について教えます(26-27節)。
イエスはご自身に代わって助け主、すなわち真理の御霊、聖霊を父から派遣してくださいます。この聖霊が弟子たちに働いて、彼らを通してイエスについての真実がこの世に明らかにされます。かつて弟子たちが悪霊を追い出せなかった時、イエスが追い出して彼らを助けました(マルコ9:14-22)。それと同じように、憎しみや迫害の中でイエスを証言するのに困った時にイエスに代わって聖霊が助けてくださるのです。この約束は弟子たちにとって何よりの安心になるでしょう。
繰り返しになりますが、私たちがイエスのことを語った時、信じてもらえなかったりときには笑われることもあるでしょう。処女懐胎や死からのよみがえりはその典型と言えます。あるいは、イエスの愛に基づいた価値観で語ったり行動したときに理解を得られないかもしれません。そんなとき、イエスがそばにいたら安心するし、次にイエスを証しする際も心強いでしょう。でも心配には及びません。イエスが目に見える姿で側にいなくとも、聖霊が私たちを落ち着かせ、イエスを伝える力を与えてくださいます。聖霊を通してイエスが私たちをバックアップしているから、私たちは安心して堂々と福音を伝えることができます。
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