■はじめに
旧約聖書の詩篇著者は自らの幸せについてこう語っています。「しかし私にとって神のみそばにいることが幸せです。(詩篇73:28)」ダビデをはじめとして詩を詠んだ者たちは、「どんな状況であっても喜びや安心は神から与えられる」と確信しています。では、私たちの生きている社会では幸福感や安心感をどうとらえているでしょうか。おそらく多くの人が「財産や健康が安心や喜びにつながる」と答えるでしょう。投資や健康関係の詐欺が後を絶たないのがその証拠です。ですから、私たちはキリスト教に基づく価値観や倫理観とは違う世の中に生きているので、知らず知らずのうちに、この世の感覚に染まることがあります。そこで今日は、神の喜ぶ生き方を維持することについて聖書に聞きます。
■本論
Ⅰ.神は私たちに聖さを求める(4:1-8)
パウロは手紙の冒頭からテサロニケの信者を喜び、神に感謝しています。テモテの報告がどれほど喜びをもたらしたのかが文面から伝わってきます。ただ、手紙はそれだけで終わりません。「夜昼、熱心に祈るほど」彼らが完全になるために尽くしたいから、パウロは必要なことがらを記します。
パウロはすべきことを伝える前置きとして「主イエスにあってお願いし、また勧めます。(1節)」と言います。「主イエスにあって」とは「この願いは主イエスの権威を帯びている」ということですから、キリストを信じる者として守るべきことがらだ、と強調しているのです。
まず、パウロは信者の歩みは神の喜びのため、分かりやすく言えば「神に気に入られること」が信者の生きる目的と言います(1節)。そして、テモテの報告から、彼らが迫害の中でもそのように歩んでいるのを認めています。ただし、パウロは現状維持を求めていません。「ますますそうしてください。」とあるように「なお一層高みを目指せ」と願っています。それも、パウロが手紙で命じることをテサロニケの信者がすでに聞いていてそれを守っているのにです(2節)。ここから、神の喜ばれる歩みが容易ではないことが分かります。
続けてパウロは「神に喜ばれる歩み」をこう言います。「聖なる者(3節)」とは「神に所属する者」を意味しますから、神と同じ聖さを持つ者です。一言で言うなら、モーセの十戒を完全に満たしている者が聖なる者となります。パウロが信者のことをしばしば「聖徒」と呼んでいるように、キリストを救い主と信じている者は聖なる者、神の家族です。しかしながら、この地上ではいまだ罪があるので完全に聖ではありません。だから「聖なる者」を目指すのです。パウロはこのことを語る直前に「キリストの再臨において神の御前で聖であり、責められるところのない者とされるように」と祈っています。
ここでパウロは「聖なる者」となるために「性的な聖さ」を扱います。というのも、「神を知らない異邦人のように情欲におぼれず(4:5)」とあるように、この当時、テサロニケを含むギリシャ地方では性的な乱れが生活の一部として普通にあり、特別な注意を引かない社会だったからです。その典型が不倫でした。それで性的な聖さを保つために、すべきことを命じました(3-6節)。
性的不品行を自ら断つことは当然ですが(3節)、パウロは「自分のからだを聖なる尊いものとして保ち(4節)」と命じています。これは、「聖さは心の問題だから、行いは関係ない」という考え方を禁じるものです。なぜなら、行いは意志によって引き起こされるからです。また「情欲におぼれず(5節)」とも命じています。これは「性的不品行があふれている環境に身を置かない」のではなく、「性的不品行を抱くのは当たり前」という思いにとどまらないことを言います。そして不倫によって兄弟を傷つけることも禁じています(6節)。この後語られるように、兄弟は傷つける関係ではなく、大切にする関係だからです。
「主はこれらすべてのことについて罰を与える方(6節)」とあるように、パウロは性的不品行を神は怒ると言います。ただ、その怒りは単に「姦淫してはならない(十戒の第7戒)」を破るからではありません。7節にあるように、神がイエスを犠牲にして人を救いに招いたのは、神と同じ聖い者に招いて、ご自身との関係を本来の関係とするためです。「罰を与える者と受ける者」という関係から「祝福する者と祝福される者」とするためにイエスを十字架につけたのです。汚れを行わせるためではありません。つまり、聖さから離れて行くのはイエスの犠牲を無駄にすることになり、神のあわれみを踏みにじるから、神は怒るのです。しかも、神は聖霊を通して人を聖い道に歩ませようとしています(ヨハネ16:8)。それゆえ、この警告はパウロの私的なものではなく、神のみこころだから拒んではならないのです(8節)。
現代社会は信仰以外で満足や安心や喜びをもたらすものにあふれています。性的なものはその典型ですが、金銭、職業、地位など数え上げればきりがありません。それらは毎日の生活の中で私たちを取り巻いていて、ほとんどの人がそれが当たり前と考えていますから、気を付けなければ染まってしまいます。大人になってから信仰を持った人は味を知っていますからなおさらです。だから「ますますそうしてください。」とパウロはイエスの権威を携えて「聖なる者となるように」命じるのです。
Ⅱ.神は他者を利用する生き方を禁じ、他者を大切にする生き方を求める(4:9-12)
続いてパウロは兄弟愛を扱います。3:12-13でパウロが祈っているように、信仰が兄弟愛を生み、兄弟愛が信仰を深めるからです。
兄弟愛は他者に対する無償の愛というよりは、信者同志の愛であり、兄弟姉妹を大切にすることを言います(9節)。パウロはテサロニケの信者に対して「あなたがたに書き送る必要がありません。」と言っています。というのも、「互いに愛し合うことを神から教えられた人たちで」と説明しているように、パウロが去った後も互いに大切にしているのは、彼らの内に神のことばが働いている、と分かったからです。その証拠に彼らの兄弟愛は教会内だけでなく、マケドニア全体に模範として広まっているからです(10節)。ただここでもパウロは「ますます豊かにそれを行いなさい。(10節)」と現状維持を求めず、なお一層するように命じています。なぜなら、これから語るように兄弟愛の実践を妨げる風潮があったからです。
ここでパウロは兄弟愛に関連して自分たちの生活について命じます。
①落ち着いた生活をし、自分の仕事に励む(11節):「求められてもいないのに他の人に余計な世話をする一方、本人は自堕落な生活をしている」そんな生活を止めて自分のすべき仕事に身を入れる。自分の仕事に専念する。
②自分の手で働く(11節):他者からむさぼらず、施しにすがらず、自分で生活することに努める
そして「名誉としなさい。(11節)」とあるように、おせっかいとか施されていることを自慢するのではなく、自分の手で働いていることを誇りにすべきなのです。これを実践したのがテサロニケにおけるパウロたちです。
パウロがこれを命じたのには背景があります。一つは、「世の終わりが間近だから、もうあくせく働く必要はない」という思想、もう一つは「他者を助けるのがキリストの愛」だから助けられて当然という愛についての間違った解釈です。現代でも「どうせこの世界は終わるのだから何やっても構わないとか何も意味がない」と言う人がいます。あるいは、「クリスチャンだから助けてもらうのは当然。自分は何もしなくていい。」と思う人がいます。
しかし12節にあるように、教会の外の人々すなわち世間一般の人からすれば、「クリスチャンは自堕落で他者に迷惑をかけてもいいんだ」という風に見られるのです。これは決して神の栄光を表すものではありません。神は十戒の十番目の戒めで「欲しがってはならない」と命じています。この戒めは「神が与えたもので十分/必要なものは神が与える」という神への信頼が土台になっています。ですから、信者は他者を利用したりむさぼったりするのではなく、神から与えられた品物や賜物を神の喜びのために用いるのです。そして、「神から与えられたもので十分/神がいるから大丈夫」という心の余裕が、他者を大切にする思いと行動を生みます。自らの安定があってこそ兄弟愛を実践できるのです。
■おわりに
パウロはこの手紙の中で「ますます~しなさい」を2度命じています。一つは「神の喜ぶ歩み」すなわち「聖なる者となる」こと、もう一つは兄弟愛です。もちろん、兄弟愛も神の喜ぶ歩みです。ただし、「聖なる者となる」と「兄弟愛」は別個のものではありません。
先ほど、聖なる者について触れましたが、聖さの反対は7節にある通り汚れです。「汚れ」は簡単に言うならば「神や人に害を及ぼすこと、あるいは嫌がること」となります。人は誰でも自分の思い通りに生きたいものです。けれども、それが「汚れ」であるならば、神の家族を傷つけることになり、兄弟愛とは真逆のふるまいになります。パウロが手紙で扱った「性的不品行」はその典型と言えます。ですから、聖さを求める生き方はおのずと自己中心から離れ、神と人を大切にする生き方につながるのです。
ただし繰り返しになりますが、私たちの生きている社会は欲望を満たすことが最優先になり、他者を顧みるのがおろそかになっています。ですから油断していると世の中の「当たり前」に流されてしまいます。聖さと兄弟愛の頂点であるキリストにますます近づくためには、いつも神の喜びとは何かを意識することが大事です。
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