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木村太

9月1日「価値観の大逆転」(ピリピ人への手紙3:1-11)

  皆さんはキリストを救い主と信じる前と後で、あるいは教会に来る前と後で、ものの見方や考え方が変わったでしょうか。私は人間の存在価値について見方が変わりました。それまでは、世の中への貢献とか生産性という物差しで命の価値を計っていましたが、キリストを信じた後は、神が造った大切な存在という見方になりました。今日はパウロの人生を通して、キリストを信じた者は価値観と生きる目的が変えられる様子を見てゆきます。


Ⅰ.パウロは行いに頼る者によって信仰を揺るがされないように警告した(3:1-3)

  パウロは手紙の中心であるエパフロディトの事情を書いた後、再びピリピ教会の人々に目を向けます(1節)。パウロはここまで、揺るぎない信仰を保つための秘訣を語りました。ただそれは、キリストを喜ぶといった内面のことと、キリストの謙遜を身につけるとか一致といった教会内部のことがらです。実はこの時代、キリスト教の教えは現代のように確立していなかったので、救いについて様々な教えが教会に入り込んで来ました。つまり、「キリストによる救い」という信仰の安全が脅かされていたのです。それでパウロは外部からの惑わしについて警告します(2節)。

  パウロは3種類の者たちに用心しなさいと命じました。

①犬:犬はユダヤ人にとって汚れの象徴であり、「汚れた存在」の代名詞でした。と同時に、異邦人を犬と呼んでさげすんでいました。しかしパウロは、ユダヤ主義者がキリストを否定していたので、神を汚す存在として皮肉を込めて犬と呼んでいます。

②悪い働き人:キリストではない間違った教えによって人を救いから遠ざけている者。

③肉体だけの割礼者:割礼のような肉体の儀式が神の民の証拠だと教えている者。

  当時、ユダヤ主義者は割礼を代表とする儀式や人が定めた細かなしきたりを厳守することが義と認められるための条件であり、神の民の証拠だと主張していました。それゆえ罪を悔い改めてキリストを救い主と信じれば神の民となる、という教えに激しく敵対していました。それでパウロは彼らに気をつけるよう注意したのです。

  さらにパウロはキリストを信じる自分たちこそが真の割礼者すなわち真の神の民と断言します(3節)。

①私たちは形式的そして強制的に礼拝するのではなく、聖霊に導かれて自主的に礼拝をささげる

②私たちは血筋とか肉体のしるしではなくキリストを誇る

③私たちは肉すなわち行いが義をもたらすといった信頼ではなくキリストによる義を信頼する

  このような自分たちこそが真の神の民だと、ピリピのクリスチャンを励ましているのです。

  現代においてもクリスチャンになるためには「~であるべき/~しなければならない」といったイメージがあります。例えば、悪いことをせず善い行いに励む、聖書をきちんと学ぶ、日曜日は教会に行く、何でも赦す、といったようにです。でも得を積むとか修行のような行いは、決して滅びからの救いになりません。私たちの罪のために死んでくださり、よみがえったキリストを救い主と信じることだけが救いの道なのです。そこに留まっていれば、キリスト以外の教えに惑わされません。


Ⅱ.パウロはキリストと結ばれたことによって真の徳を知り、これまでの生き方を損と見なした(3:4-9)

  パウロは「肉に頼る」つまり自分の行いによって神から義と認められる原理に触れたので、さらにそのことを語ります。

  パウロは、誰かが肉に頼る者と言うのならば、私は誰よりも肉に頼る者だ、と言います(4-5節)。なぜなら、しるしにおいてはしきたりに定められた割礼がなされ、血筋においては純粋なイスラエル民族のベニヤミン族であり、律法においては厳格に守るパリサイ派に属し、そして律法の専門家だからです。しかも、キリストのような異なった教えに対しては徹底的に迫害していました(6節)。ですからパウロは、肉に頼る者すなわち行いによって義を求める点では、自分は第一人者で非の打ち所がないと誇るのです。

  ところがパウロは自分の誇りについて驚くべきことを言います(7-8節前半)。パウロは、行いによって義を求めるこれまでの生き方、さらにいうならこれまでの人生すべてを得ではなく損と見なしている、と語ります。神から義と認められるために、生まれてこのかた律法について熱心かつ厳格に守ってきたにもかかわらず、それが不要になったばかりでなく損つまり自分にとって有害だと言うのです。

  なぜそうなったのかをパウロは「キリストのゆえに」「私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに」と明らかにします。「キリスト・イエスを知っている」とは、キリストに関する事実を知識として知っているというよりも、キリストと一体となってキリストのすばらしさを受け取っていることを言います。パウロにとって、キリストによる義の方が史実でかつすばらしいので、行いによる義は不要になるだけでなく、キリストから自分を引き離す有害なものになりました。何が自分にとって大事なのか、という価値観がキリストによってすっかり変えられたのです。

  パウロはキリストをすばらしいとする理由をこう語ります(8後半-9節)。繰り返しになりますが、パウロは律法を厳格に守ることで自分の義、すなわち自分自身で自分は正しいとか、まだまだ達していないと定めていました。自分で定めているのですから、どれほど熱心になっても神からの絶対的な確証を得られず、ずっと熱望したままでした。ところが、キリストが義であり、そのキリストを信じた者が義と認められる事実を、パウロはキリストから与えられて受け取りました。最も大事なのは律法ではなくキリストだとパウロはわかったのです。だから、律法を守るという行いで義を求めるのは、必要がないばかりかキリストを信じることを邪魔するものになったのです。そのため、行いによる義を主張するユダヤ主義者に気を付けなさいとピリピの人々に警告するのです。

  人は安心や幸せのために財産や地位、信用、人脈、血筋などを重宝します。パウロのように善い行いを心がけている方もいるでしょう。けれども、どんな状況でも頼りになるものではありません。まして死んだ後に、神から義と認められて天の御国に行けるかどうかの保証にはなりません。人にとって地上の平安と天の御国に必要なのはキリストを信じることのみです。だから人にとって一番大事であり価値があるのはキリストなのです。それゆえ、これまで大事だと考えていたことや大事にしてきた物にこだわりが無くなるのです。


Ⅲ.パウロは自分を満たすための人生からキリストを目指す人生に変えられた(3:10-11)

  さらにパウロは自分について語ります(10-11節)。パウロはキリストとその復活の力、すなわち義と認めた者を神は死からよみがえらせ、天の御国で神とともに住まわせるという真実を知りました。そして自分がそのような者になったことを認めました。パウロはこれまでキリストの敵となり、キリストを信じる者たちを激しく迫害しました。自分では神にとって善いことをしていると思っていても、実は神のみこころに背いていたのです。かつてキリストに敵対していたパウロは真っ先に滅んでよい存在でした。しかし、神はあわれみによってパウロを救いに選んでキリストを信じる信仰を与えて、熱望していた義を認めました。だからパウロは、キリストと同じように福音のためには死に至るまでの苦難を厭わないと語るのです。「何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」とは「復活が不確定だから是非ともお願いします」ではなく、死んでよみがえったキリストと同じになりたいという強い気持ちを表しています。パウロは、こんな自分でさえも救ってくださった神のあわれみに対していのちをかけたい、自分のために犠牲となったキリストの役に立ちたいと強く願っているのです。パウロは自分を満たすための人生から神のための人生へと変えられたのです。



  パウロと同じように私たちもキリストに出会う前は、自分の満足や喜びのために生きていました。そしてそれを得るためにお金や物や人からの評価のように目に見えるものを最も価値あるとみなし、いつも気にしていました。けれどもキリストに出会い、救い主と信じ、キリストと結ばれたことで、この世のものでは得られない平安と喜びと満たしを得たのです。何よりも天の御国を約束されました。しかも神から大切にされ、神が常に支え励まし助けてくださるという事実をわかりました。それゆえ私たちは、「最も大切なのはキリストを信じ、キリストに従うこと」この価値観に変えられ、そして自分を満たす人生から、すばらしいものを下さった神のために生きる人に変えられたのです。

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