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木村太

9月4日「神と一緒の人生2 -イエスのとりなし-」(ヘブル人への手紙7章23-25節)

■はじめに

 先週は詩篇から神とともに生きる方法を受け取りました。すでに神は私たちのそばにおられますから、そのことを信じて神の働きに気づけば、神とともに歩んでいることがわかるのです。ただし、このことは神との関係においては受け身的な要素であり、神から自分への方向に焦点が当たっています。皆さんも経験しているように、関わりというのは互いにやりとりがあって成り立つものです。つまり、受け身だけではなく、自分から神に向かうとか発信するような面についても、私たちは知る必要があります。今日は、ヘブル人への手紙を中心として、双方向のやりとりについて聖書に聞きます。


■本論

Ⅰ.神に願いをささげ、神からのことばをもらうためには、神に近づかなくてはならない

 現在、私たちは時間や場所に関係なく神に礼拝をささげることができます。そして、礼拝では特別な作法や道具は必要ありません。これは他の宗教とは大きく違います。例えば、仏教では仏壇やご本尊に向かってお経をあげますし、神道では神棚に向かって礼拝します。イスラム教ではメッカに向かって決まった時刻に祈りをささげています。また、袈裟とか数珠といった装束や道具を必要としています。


 実はキリスト以前の時代いわゆる旧約の時代には礼拝の作法がありました。旧約聖書では、天地万物を造った神に向かって感謝や願いをささげる場合、誰でも勝手な方法でささげてはいません。例えば、律法(エジプト脱出した後に神と交わした約束)が与えられる以前は、ノア(創世記8:20)とかアブラハム(同12:6-8,22:13)、イサク(同26:25)、ヤコブ(同33:20,35:1-7)などは祭壇を築いて神に感謝をささげました。


 律法が与えられた後は契約の箱が置かれている幕屋や神殿で礼拝をささげました。民数記17:4「わたしがそこであなたがたに会うあかしの箱」とあるように、この契約の箱(あかしの箱)は神がそこにおられることを意味しています。つまり、神に感謝や願いをささげたり、神のことばを求めるには2つのことが必要なのです。そしてキリスト以降いわゆる新約の時代もこの2つに従っています。

①神のおられる場所に行く  ②神の定めた形式がある


Ⅱ.イエスの死によって人は義と認められ、よみがえったイエスが人と神とをとりなしている

(1)神が許可した者(どんな人が神の前にでることができたのか)

今申しましたように神は神の前に出る方法を定めました。大きく分けて一つは人に関わること、もう一つは作法に関わることす。

 

本来、人は神に近づけません。なぜなら、神は完全に聖なるお方だから、罪と汚れのある人間が近づけば神の怒りによってたちまちのうちに滅ぼされてしまうからです。出エジプト33:20「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」とあります。神に近づける者は神が聖と認めた者だけなのです。この「聖」とは神の性質の一つであり、人にいては「神のために取り分けられた者」を言います。それゆえ、律法が与えられる前では、神が特別に選んだアブラハムやヤコブなどが聖なる者であり、律法の後は神と契約を交わした神の民イスラエル部族が聖なる者になります。出エジプト19:6では、彼らは聖なる国民と神から呼ばれています。


 つまり、聖なる者たちだけが神の前に出ることができます。神はこの地上のすべてに介入できますが、神に近づくことができるのは神の民あるいは神が許可した者だけなのです。それゆえⅠペテロ2:9「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。」とあるように、イエスの再臨を待つ今はイエスを救い主と信じた者が神の前に出ることができます。なぜなら、イエスを信じた者は罪赦され、聖く、傷なく、非難されるところない者となるからです(コロサイ1:22)。国王に謁見を許可されるごとく、私たちはイエスによって神の前に出ることができます。これが私たちに与えられたすばらしい特権なのです。


(2)神が指定した方法

 神の所有であるイスラエルの民は神の前に出て感謝や罪の赦しや願いをささげることができました。ただし、神はやり方を定めました。イメージ的には茶道の作法でしょうか。


①場所:契約の箱が置いてある幕屋あるいは神殿(出エジプト25:8-9)。


②神に近づくことができる人:神がおられる幕屋や神殿に入ることができたのはレビ部族に所属する祭司のみです。一般人は神の前に行くことはできません。もし、祭司以外の者が幕屋に近づいたら必ず死にます(民数記18:7)。しかも、祭司たちはさらに特別なきよめがなされ、また罪の贖いも必要でした(出エジプト28-29章)。特別な人と作法によって「聖さ」というのを目に見える形式で示したのです。(日本の「禊ぎ」「厄払い」と同じ)


③方法:人が神に感謝を表したり、罪を赦してもらうためにはささげ物が必要です(レビ1-7章)。それらに加えて、年1回の贖いの日には、大祭司がいけにえの血を携えて至聖所に入り、民を代表して全イスラエルの罪の贖いをしました(レビ16:11‐34)。これは大祭司がすべての民と神との仲介をしているのです。


神は「勝手な方法で礼拝する者」を死に定めます。見方を変えれば、罪ある人間はそのままの姿では簡単に神の前に出て礼拝できないのです。律法における細かな作法は神が定めた聖さの基準が非常に高いことを示しているのです。


(3)イエスが祭儀を終わらせた

 ところが、私たちは今、いつでも、どこでも、自由に礼拝できます。なぜできるのでしょうか。それは、イエスの死とよみがえりがあるからなのです。「このみこころにしたがって、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。(ヘブル10:10)」とあります。イエスを信じる者は儀式的な聖さではなく、イエスがささげ物としてささげられたゆえに本質的に聖いと認められています。つまり祭司とは全く違う聖さを、神に認められているのです。だから、全ての者が神の前に出るができるのです。


 また、こうあります。「また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。(ヘブル9:12)」「イエスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます。(ヘブル7:24)」大祭司は年1度、いけにえの血を携えて神の前に行き、イスラエルの民すべての罪を赦してもらいました。つまり、大祭司が神と人との間をとりなしているのです。

 

 それと同じように、真の神であり、真の人であるイエスがご自身の命といういけにえをささげて、神と人との間をとりなしました。まったく罪のないイエスのいのち、すなわち血といういけにえを、ただ一度神にささげただけで、神は永遠にわたってイエスを信じる者の罪を赦します。さらに十字架で死んだイエスは人とは違うからだでよみがえり、父のおられる天に戻り、永遠に神の右に座していて(ヘブル8:1)、神の前に出る私たちの願いや訴えを永遠に取り次いでくださっています。


 このことは大きな意味を持ちます。なぜなら、私たちは神に礼拝や祈りをささげるときに、もういけにえを用意しなくていいのです。また、年一回の贖いの儀式も必要ありません。しかも、神もイエスも常に私たちのそばにおられますから、イスラエルの民のように神が来られる幕屋や神殿といった特別な場所に行かなくてもよいのです。


 「イエスのいのちによって私たちの罪が赦されたこと」「イエスのとりなしによっていつでもどこでも礼拝や祈りができること」これは神のあわれみからもたらされています。「私たちが何か善いことをした」とか「神からの決まりをちゃんと守った」あるいは「厳しい修行に耐えた」といった私たちの手柄ではありません。「汚れた手で服の汚れをぬぐい取れない」ように、私たちは自分で自分を聖くできないからです。神に向かって自由に語り歌い祈れるのは、神のあわれみゆえなのです。


■おわりに

 私たちは日曜日の10時半からこの教会で礼拝をしています。けれども、墓前礼拝や野外礼拝、聖会での礼拝のように、どこでもどの時間でも礼拝ができます。同じように、祈りもいつでもどこでもできます。この姿が神の前にいること、イエスがとりなしていることをこの世に示しているのです。


 本来、神の民だけが決められた場所と方法で神の前に出て礼拝できました。しかし、イエスの十字架の死による罪の赦しと、よみがえったイエスによるとりなしがあるからこそ、私たちはいつでもどこでも神の前に出て礼拝や祈りができます。


 神はいつも私たちの傍らにいて、私たちのために人知の及ばないわざを成しておられ、それを私たちは受け取っています。一方、私たちもイエスによって自由に神に語ります。イエスを通して私たちは神と直接、双方向のやりとりをしているのです

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