■はじめに
イエスも使徒パウロも「クリスチャンは自由。何からも縛られない。」と言っています。ですので、キリスト教には「~しなければならない/~してはいけない」という戒律はありません。けれども世間では「日曜日は礼拝に行かなくてはならない/どんなときも親切で優しくしなければならない」のように、不自由な生活と受け取られています。実際に私もクリスチャンゆえに忍耐したり、あきらめたりなど、不自由を感じるときがあります。なぜ、自由と言われているのに不自由なところがあるのでしょうか。今日は神が定めたクリスチャンの生き方について聖書に聞きます。
Ⅰ.イエスにとどまる者は「神の栄光を現す」という実を結ぶ(15:1-6)
イエスは今、十字架刑を前にして弟子たちと最後の食事をしています。その中でイエスはまず自分が弟子たちに何をするのかを語りました。そしてここからは、イエスや神にとって弟子たちはどんな存在なのかを語ります。
イエスはご自身と弟子、父なる神、この三者の関係をぶどう栽培でたとえました(1節)。ユダヤ人にとってぶどうは身近な作物なので分かり易いからです。また、旧約聖書ではイスラエル民族をぶどうの木でたとえています。神が彼らに求めた実とは「ご自身の存在を知らせ、ご自身の支配・力・恵みといった栄光を現すこと」でした。言い換えれば、イエスが来る時まで神を知らしめるのがイスラエルの実であり、それを完成させたのがイエスなのです。だからイエスは自分のことを「まことのぶどうの木」と呼ぶのです。神がイエスを地上に植えたのは、イエスを信じる者が神の栄光という実を結ぶためでした。
2節「わたしの枝」とはイエスを信じついて来ている人々です。ただしそれらには実を結ぶものと結ばないものがあります。イエスは「実を結ぶものを刈り込む(2節)」「あなたがたははすでにきよい(3節)」と言い「刈り込む」と「きよい」には同じことば(ギリシア語)を使っています。ですので、実を結ぶものとはこの場面では11弟子を指しています。つまり弟子たちの活動から明らかなように、「イエスは神の子、滅びから救う救い主と証言し、神の栄光を知らしめる者」が実を結ぶものなのです。実という意味では先ほどのイスラエル民族と同じです。
そして実を結ぶものがさらに実を結ぶために神は彼らを刈り込みます。「刈り込む」とは、実の収穫量や花の数を増やすための剪定を言います。聖書の中で完全に実を結んだのはイエスすなわち罪がない状態です。ですから、刈り込みは自分と神との間を邪魔するものを取り除き、イエスと神との関係となるようにします。言い換えれば、神に対して間違った理解を修正し、神以外に頼ろうとする思いを削ることなのです。旧約聖書で神がイスラエル民族になしたことがまさに刈り込みです。
それでイエスは11弟子を「すでにきよい」すなわち「すでに刈り込まれた」と言うのです。なぜならご自身のことばで彼らを教え、戒めた末に残っているのがこの11人だからです。一方、イスカリオテのユダやイエスに失望した者、あるいはイエスを自分のために利用する者は実を結んでいないので、神がイエスの群れから引き離します。いわば形式的、表面的、自己中心的に従う者は離れてゆくのです(2節)。
ここでイエスは実を結ぶための秘訣をこう言います(4-5節)。枝が幹から養分をもらい実をつけるように、イエスにとどまる、イメージ的にはイエスとつながっていなければイエスを証しできません。それ以前に枝が幹につながっていなければ枯れてしまいます(6節)。じつはすでにイエスは枝が幹につながっている手本を彼らに見せてきました。イエスは父なる神にとどまっているから神からのことばを語り、神のわざをなしました(ヨハネ14:10-11)。イエスを通して神がお働きになったのです。それと同じように人もイエスにとどまっていれば、人を通して神がお働きになります。このことをパウロも証言しています。「彼らにあいさつしてから、パウロは自分の奉仕を通して神が異邦人の間でなさったことを、一つ一つ説明した。(使徒の働き21:19)」
「人が神の存在と栄光に気づく/人がイエスによる救いに心を寄せる」これが私たちの実であり、地上における私たちの役割です。私たちはイエスを信じる人が一人でも生まれるように、何をすれば良いのか考え悩みます。けれども最も大事なのはまず自分がイエスにとどまっているかどうかなのです。イエスにとどまり、私たちがイエスから生きる養分をもらい、私たちを介して神がすばらしい働きをなしてくださいます。
Ⅱ.イエスにとどまる者はイエスを信頼し、イエスのことばを守る(15:7-11)
さらにイエスは「とどまる」ことを具体的に説明します(7-8節)。イエスにとどまるとはイエスのことばを持ち出してそれに従うことです。イエスのことばを無視するのは自分を優先しているのであり、イエスとの関係を断っているのと同じです。そして、すでに見ましたようにイエスにとどまる目的は神の栄光ですので、そのために必要なものであれば何でもイエスを通して神に求め、神はそれに応じてくださいます。ただし、「神のために」と求めながら、その源が自己満足にあるならば与えられないでしょう。イエスは自分のことよりも神のことば、神のみこころを最優先にしたから神の不思議なわざをなすことができました。先ほど申しましたように、「神のことばにとどまったイエス」が「イエスのことばにとどまる者」の手本なのです。
また、イエスはとどまることを別の見方から語ります(9-10節)。イエスはご自身にとどまることをご自身の愛にとどまることと言います。このことも父に対するイエスの姿が明らかにしています。すなわち、「父は私のことを最もよく知り、私のことを最も大切にしている」ここにイエスは完全な信頼を置いて父に身を委ねました。ゲツセマネの園で「わたしの願いではなく、みこころがなりますように。(マタイ26:42)」と祈ったのは、神の愛にとどまっているからです。そして信頼しているから、神の戒めを守ることができます。なぜなら、私のためを思っているから命じた、と分かるからです。
それと同じように「イエスは私のことを最もよく知り、私のことを最も大切にしている」これに完全な信頼をおくので、イエスの戒めを守れるのです。いわば、イエスに身を委ねた証拠がイエスの戒めを守ることなのです。反対に、イエスの戒めを「守らない/守れない」のは「自分のために命じてくださっている。」というイエスの愛を無視したり、鈍感になっていると言えます。これがイエスにとどまっておらず、イエスから離れた者の姿です。
ところで、イエスにとどまるのは実を結ぶためだけではありません。実を結ぶのはイエスと自分の喜びになります(11節)。自分のことで親が喜ぶのと、悲しんだり怒るのと、どちらがうれしいかと聞かれたら、当然喜ぶ方がうれしいです。弟子たちがイエスにとどまって神の栄光を現すことをイエスも神も喜びます。その喜びが弟子たちの喜びになるのです。「何かをやったことの結果」あるいは「やったことの程度」ではなく「神の栄光を現すこと」に喜びがあるのです。
イエスにとどまるとは、イエスを100%信頼してイエスの教えや戒めといったイエスのことばを守ることです。これを私たちの人生に適用するならば、イエスのことばである聖書を自分の中に蓄え、そして書いてあることがらの真理を分からなければなりません。だから聖書通読や説き明かしの傾聴が必要なのです。もう一つ大事なのは聖霊の助けを求めることです。ヨハネ14:26にあるように、みことばの理解とその場にふさわしいことばの取り出しは聖霊なしではできません。私たちの意志と聖霊の助けの両方があってこそ、私たちは神の栄光を現すという実を結べるのです。
■おわりに
神は私たちの身代わりとしてイエスを十字架で死なせ、3日目によみがえらせました。それはイエスを救い主と信じる者の罪を赦し、天の御国における永遠のいのちを与えるためです。けれども救いについての神のみこころはそれがすべてではありません。イエスが地上を去って天に戻ったのちは、クリスチャンがイエスの代理として「イエスによる救いと神の栄光」を明らかにする、この実を求めています。
だから私たちはイエスの愛にとどまり、イエスに信頼してイエスのことばを守り、私たちを通して神が不思議なわざをなしています。ただしイエスにとどまるには自分が握っているこだわりを手放さなければなりません。「金銭、人脈、地位、血筋、民族、能力」のようにイエスではないものに頼ろうとすること、あるいは自分の思い通りになるのを第一とすること(ペテロがイエスの受難を否定したように)、こういったこだわりを捨てなければなりません。イエスにとどまるには痛みや窮屈さを伴うのです。しかし、その先に私たちの思いもよらない喜びがあるのです。「我が子を犠牲にするほどの神の愛/人のためにいのちを捨てるほどのイエスの愛」このことの実感が私たちをイエスという木にどどまらせます。
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