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木村太

9月6日「ベテスダでのいやし」(ヨハネの福音書5章1-18節)

・はじめに

 一般にキリスト教の愛は無償の愛と理解されています。無償とは見返りを求めずに他者の益のために行動することです。ただし、無償の愛には何らかの犠牲が伴っています。例えば、自分が痛手や苦難を負うことになっても、労力や時間、財産などを費やすのが、キリスト教の愛と言えます。今日はベテスダの池での出来事を通してイエスの愛について見てゆきましょう。

Ⅰ.イエスは絶望の病者に目を留め、彼を苦しみから解放した(5:1-9)

 イエスはパリサイ人との争いを避けるためにガリラヤ地方に行きました。しかし、ユダヤ人の祭りに合わせて再びエルサレムにやって来ました(1節)。危険な目に遭うかもしれないのに、ここに来たのは神である父との関係を世に示すためでした。そのための出来事が起きます。

 エルサレム神殿の中にベテスダと呼ばれる池がありました(2節)。この池はもともと、礼拝する者が身を清めるために沐浴する場所でした。またこの池は間欠泉のような性質を持っていて、突然水がかき回されていました。そして池には不思議な言い伝えがありました。それは、水がかき回されるのは主の使いが降りて来て水を動かすのであり、動いてから最初に池に入った者はどんな病気でも癒される、というものです。それで、大勢の重病人が池を囲む回廊で床に伏していました(3節)。

 ここでイエスはある病人に目を留めます(5-6節)。どんな病気なのか分かりませんが、この人は38年もの長い間来る日も来る日も池に入って治るのを望んでいました。イエスは彼に「良くなりたいか。」と問いかけ、病が治るのを望んでいるのか尋ねました。そこで彼はこう答えました(7節)。

 病の人は「はい。良くなりたいです。」と答えずに「主よ」と呼びかけ自分の状況を訴えました。「池の中に入れてくれる人がいません。」とあるように、彼は自力で動くことができません。しかも、ものすごい数の人が一斉に池に降りて行きます。池に集まる全員が、治るために一番を目指して必死なのですから、他の人に気遣う者など一人もいません。水がかき回されるのをじっと待っていますが、それが起きた後は「今回もだめだった」という結果なのです。38年間待っていても、彼が一番先に池に入る手段も可能性もゼロです。彼のことばには「治るはずがない。」という絶望が込められているのです。そんな自分に声をかけてくれたから、彼はイエスを「主よ」と呼んだのでしょう。

 彼の言葉にイエスが答えます(8節)。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」というのは、不治の病が完全に治り、もうここにいる必要はなく普通に生活できることを意味しています。当時の医療では治らない病なのに、具体的なことを何もしていないのですから、驚くべき指示です。

 ところが9節のように、病の人はイエスの指示どおりになりました。彼は床を肩に担いで歩き出しました。驚きとしかいいようがありません。イエスのことばはその通りとなり、イエスに従った者をイエスは苦しみから開放するのです。イエスによって、病の人は38年間寝たきりの人生が終わり、絶望から開放されて新しい人生が始まりました。

 人は絶望する存在です。痛み、悲しみ、不安、恐れ、こういったものを自分の力で払えず、かつ助けてくれる人が誰もいないとき、人は絶望します。現代日本のように自分のことに夢中で他者への関心が薄い社会では特に絶望を抱きやすくなります。しかし、イエスはそんな人に目を留めて、不思議な仕方で苦しみから開放します。たとえ抱えている問題がすぐに解決しなくても、あるいはそのままであったとしても、この病者のようにイエスはご自身に従う人を人知を越えた方法で絶望から開放し、平安で満たすのです。

Ⅱ.イエスは自分の身に危険が及ぶとしても、まことの安息のために働く(5:10-18)

 ところでこの出来事が起きたのは安息日でした(9節)。それで新たな問題が生まれます(10-11節)。十戒では安息日の労働を禁じています。そこでユダヤ人たちは律法を拡大解釈し、安息日の労働について39もの規則を設けていました。それによれば、荷物を運ぶことは労働と見なされ禁止となっていました。彼らが「床を取り上げて歩く」ことにこだわっているのは、それが荷物を運ぶ行為であり、規則を破る行為だからです。

 病が治った人は「床を取り上げて歩け」という指示に従っただけと答え、それに対してユダヤ人はその指示を出した人物を特定しようとしました(12節)。規則を破る指示を出した者を放ってはおけなかったのです。しかし、イエスはご自分のことを明かさないまま立ち去ったので、彼は誰の指示か分かりませんでした(13節)。大勢の人にご自身を明らかにする時ではないので、イエスは立ち去ったのでしょう。

 ところが安息日の問題はここで終わりませんでした(14-15節)。ある時、イエスはエルサレム神殿でその人を見つけ、二度と罪を犯さないように命じました。「もっと悪いこと」とは38年間の苦しみよりももっとひどいこと、すなわち永遠の滅びを指しています。イエスは再び病とならないために罪を犯すなというよりも、神に背いて永遠の滅びに至らないように警告しているのです。

 しかし、彼に声をかけたことで「床を取り上げて歩け」と命じたのがイエスだとユダヤ人たちに分かってしまいました。声をかけなければ、ユダヤ人たちは誰だかわからず、身に危険は及ばないのにです。つまりイエスにとって、自分の身が危なくなるよりも、新しい人生を歩み始めた彼がひどい目に至らない方が大切なのです。

 案の定、安息日の規則を破らせたのがイエスだと分かったので、ユダヤ人たちはイエスを攻撃し始めました(16節)。彼らは規則を守らせている自分たちよりも高い権威にイエスがご自身を置いているのを我慢できないのです。そんな彼らにイエスはこう答えます(17節)。

 「働く」ということばは「従事する」を意味します。ですから、神は天地創造以来人に従事している、とイエスは言います。特に最初の人アダムとエバが罪を犯した後は、罪故の苦しみを開放するために人に尽くしています。つまり神にとって安息日は関係なく、常に働いているからイエスもそれに従っているのです。38年間の病の人が治ったように、神もイエスも人がこの地上で安息を得るように働いています。そして、天の御国でまことの安息を得るために働いています。今、イエスが活動しているのはまさにそのためであり、その働きのクライマックスが十字架なのです。

 イエスのことばにユダヤ人が反応します(18節)。当時、「神から独立して行動するか、あるいは神の裁きに従わない人は自分を神と等しい位置に置いている」と宗教指導者は解釈していました。ユダヤ人たちは安息日の規則を神から与えられたものと信じていますから、彼らにしてみればイエスは「自分は神です」と言っているようなものです。しかも、父に従っているというのですから、父を神としていると受け取られています。それで彼らはイエスが神を冒涜していると見なし、殺そうとやっきになるのです。

 「苦しんでいる人が苦しみから解放され、もっと悪いことである永遠の滅びを免れ、天でのまことの安息に入る」ためにイエスは人に従事します。しかも、自分の身に迫害や殺害といった危険が及ぶとしてもやめません。ご自分よりも人を大切にするという神の愛がここに示されています。一方、ユダヤ人たちは病の人が治ったのを喜びもせず、規則違反を理由にかえってその人を苦しめようとします。神の名を借りて、相手よりも自分を満足させることが大事なのです。まさに人の本質が現れています。

・おわりに

 先ほど人は絶望する存在と言いました。ただ、人生においては苦しみから脱出する可能性がゼロではありません。思いも寄らない展開になったり、思いも寄らない所から助けが来ることもあるからです。だから信仰とか宗教が必要とされないのかもしれません。一方、最後の審判で無罪となる、すなわち永遠の滅びを免れて天の御国で永遠の平安を得るのは、イエスなしでは不可能です。生まれたままでは天の御国へは行けません。しかも、自分でも他の人でもどうすることもできません。天の御国でのまことの安息については、あの病の人のように絶望しかありません。

 しかしイエスはそんな私たちに目を留め「私を信じれば死んでも生きる」と語ってくださり、イエスを信じる者に天の御国を約束しました。イエスを救い主と信じる者は絶望から開放されているのです。ただし、神が私たちの罪を赦すために、ご自分の子イエスが十字架で犠牲となりました。私たちがまことの安息を得るために、イエスはご自分のいのちを差し出したのです。これこそが神の愛です。私たちがまことの安息を得るために、父なる神、子なるイエス、助け主なる聖霊は今も休むことなく働いておられるのです。

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