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木村太

9月8日「神の摂理」(エステル記4章1-14節) 

■はじめに

 神はご自身の栄光を表すために、ご自身の計画に従って2つのわざをなしています。ひとつは創造、もうひとつは摂理です。創造は無から有を造り出すわざであり、一度だけのものです。一方の摂理は、ご自身がすべてのことに介入して、定められた方向に導くわざであり、途切れることなく継続しています。私たちも、困難の真っ直中で、まるで前もって準備されていたかのように解決の手段が備えられていたときに、「これは神の摂理だ」と受け止めます。今日は、モルデカイとエステルのやりとりから、神の摂理について聖書に聞きましょう。

 

■本論

Ⅰ.モルデカイはユダヤ民族の救いをエステルに要請したが、エステルは危険の大きさに圧倒されて戸惑った(4:1-11)

 本論に入る前にエステル記の時代背景について簡単に触れます。南王国ユダはバビロニア帝国によって滅ぼされ、多くのユダヤ人が補囚としてバビロニアに連れてゆかれました。捕囚から70年後、ペルシア王クロスがユダヤ人を解放し、約5万人がエルサレムに戻りました。しかし、実際には大部分のユダヤ人がペルシアに残りました。なぜなら、そこでは彼らの生活や社会的地位が安定していたからです。また、ペルシア帝国は支配していた民族の宗教に寛容だったので、自分たちの信仰を守ることが可能だったからです。そんな状況の中、ユダヤ人の叔父モルデカイに育てられたエステルが新しい王妃に選ばれました。

 

 ペルシア帝国の総理大臣ハマンは、モルデカイが自分にひれ伏さなかったことに激怒し、彼だけでなく、彼の民族ユダヤ人の絶滅を計画しました。そして、王の許可を得て、約一年後に絶滅する法令をペルシア全土に出しました。当然、モルデカイもそれを知りました。

 

 「衣を引き裂く/粗布をまとう/灰をかぶる(1-2節)」はいずれも悲しみの表現です。「大声で激しくわめき叫ぶ」とあるように、モルデカイは態度で表し切れないほどの悲しみ、まさに人生のどん底にいるのです。その激しい悲しみや絶望はモルデカイだけではありません。法令を目にしたユダヤ人も同じです。「断食(3節)」とありますから、人々は嘆きながら神に祈りをささげました。

 

 王宮のある首都スサにいるユダヤ人は激しく嘆き、その様子が王宮にいるエステルにも届きました(4節)。エステルはユダヤ人の様子を聞くやいなや、悲しみで体を震わせました。そして彼女はモルデカイを慰めたい一心で、着物を届けました。ところがモルデカイはその着物を受け取りませんでした。「受け取らない」というのは、モルデカイがエステルのふるまいを良いと思っていないのです。なぜなら、モルデカイとエステルの向いている方向が違うからです。モルデカイは自分のことよりもユダヤ人の絶滅を嘆いているのに対し、エステルはユダヤ人よりもモルデカイを心配しています。彼が嘆く理由を知らないのですから、当然かもしれません。

 

 モルデカイの対応にエステルはただごとではないと察しました。彼女は嘆き悲しんでいる理由を知るために、宦官ハタクを伝令としてモルデカイに送りました(5-6節)。そしてモルデカイはハタクに事のすべてを語り、さらに語った内容が事実であると証明するために、法令の写しもハタクに手渡しました(7-8節)。しかし、モルデカイはユダヤ人の危機だけをエステルに伝えたのではありません。「そして彼女が王のところに行って、自分の民族のために王からのあわれみを乞い求めるように、彼女に命じるためであった。(8節)」とあるように、「ユダヤ人にあわれみをかけてくれるように、王妃の立場としてクセルクセス王に願い出て欲しい」とエステルに要請したのです。

 

 この要請にエステルはこう答えます(10-11節)。自ら王に願い出るためには、奥の中庭にある謁見室に行かなければなりません。ただし、そこで王の笏が自分に差しのばされなければ死刑になります。王の命を守るために、許可無く謁見することはできないのです。

 

 一方、王から呼ばれて行くという方法もありますが、こちらもしばらく呼ばれていないので可能性は低いのです。しかも、王からエステルに求めるのであって、エステルが王に願い出る機会ではありません。クセルクセス王は気まぐれで有名ですから、どちらの方法も実現不可能に思え、加えて命の危険も伴うのです。

 

「王の家臣たちも王の諸州の民も、だれでも知っているように(11節)」ということばに、「あなたの願いがどんなに危険で困難なのかあなたも承知でしょう」という訴えが込められています。あれほどモルデカイに忠実だったエステルもこのことだけは簡単に承知できないのです。王妃という立場で王に謁見できるチャンスがあることを知っていても、現実に圧倒されて「自分にはできない、どうすればよいのか」と戸惑っているのです。

 

 イエスも自分が十字架で死ななければ、人を滅びから救うことはできないと知っていました。それが父なる神のみこころだとも知っていました。けれども、十字架刑という現実に圧倒されて、「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。(マタイ26:39)」と口にしました。私たちも自分の役割を十分理解していても、うまく行く可能性がわずかだったり、あるいは大きな苦痛を伴うのが明らかなときには躊躇してしまいます。時には逃げ出してしまうこともあるでしょう。たとえ神や人の喜びになるとわかっていてもです。私たちはそういった性質があることをまず知ることが大切です。しかし、摂理と確信したときにはそれが実行できるのです。これがエステル記の中心です。

 

Ⅱ.モルデカイは、エステルが王妃となったのは神の摂理だと確信し、エステルに決断を迫った(4:12-14)

 宦官ハタクからエステルの返事を聞いて、モルデカイは彼女の気持ちをわかりました。そして直ぐさまエステルにことばを届けました(13-14節)。モルデカイは、たとえ王妃であってもペルシアの法令に例外はない、とエステルにも危機が迫っていることを訴えました。一方で、「もし、あなたがこのようなときに沈黙を守るなら、別のところから助けと救いがユダヤ人のために起こるだろう。」と言っています。モルデカイは神の民ユダヤ人は絶滅しないことを確信しているからこう言えるのです。その証拠にユダ王国が滅亡してもユダヤ人は生き残っています。

 

 ただし、「しかし、あなたも、あなたの父の家も滅びるだろう。」とも言っています。なぜなら、救える立場やチャンスを持つ者がその使命を果たさないなら、言い換えれば神からの使命を果たさないなら、その者は神への背きで滅びるからです。つまり、「ユダヤ人を助けるためにはエステルが王に謁見しにゆく、これが神から与えられたあなたの使命だ。これ以外に道はない。」とエステルに決断を求めているのです。

 

 そして、畳みかけるように決断を迫ることばを投げかけます。それが「あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、このような時のためかもしれない。(14節)」です。「王国に来た」は「王国に達した」を意味します。ペルシア帝国の王妃に達したのは、エステルが努力で勝ち取ったのではありまえせん。人に選ばれて好意を持たれた結果です。モルデカイは、エステルが王妃に達し、王に謁見できる立場に達した事実を見て、ユダヤ人を救うために神が働いたという、神の摂理を確信しているのです。

 

 今ユダヤ人を救うチャンスを持っているのは、ユダヤ人で王妃となったエステルだけです。ユダヤ人の中でエステルしかできないのです。「これは運命とか偶然ではなく、ユダヤ人を救うために神が介入した摂理だから、たとえ自分のいのちの保証がなくても、自分の果たすべき事を全うしなさい。」とモルデカイは訴えているのです。つまり、自分の意志に関係なく置かれたところで、神の正義を行えるのは自分しかいない、あるいは神の愛を行えるのは自分しかいない、こういった状況が神の摂理と言えます。

 

 ここで大事なことが3つあります。1つ目は神の摂理においては、神から求められているのは、自分の使命を果たすことだけです。結果を出すことではありません。エステルで言うならば、王に願い出るために王のところに自らの意志で行く、となります。まず行かなければ願い出る機会すらありません。そのあと、王が笏を差しのばすかどうかは王の心の問題であり、そこにも神の介入があると信じて、自分の果たすべき使命を全うするのです。2つ目は、神の摂理なのですから、「その人が自分の使命を全うできる」と神が判断しているから、そこに置いたということです。モルデカイもエステルが王妃に達したのは神の摂理だと確信しているから、彼女が行動を起こせると信じて決断を迫っているのです。3つ目は神が導いたのですから、使命を果たすときにも神の助けが当然あります。「結果ではなくただ果たす/できるからここに置かれている/神の助けが必ずある」この3つによって「結果がもたらす/可能性がもたらす/自分の背負う痛み」がもたらす恐怖や不安から私たちは解放され、神から委ねられた使命を全うできるのです。

 

■おわりに

 私たちも自分の意志に関係なくあるところに置かれます。例えば、学校のクラスや会社の配属・転勤などは選べ無いときがあります。人種や民族も自分の意志で決まるものではありません。予期せぬ事故や病気で病室に置かれるということもあるでしょう。そんな中で、人の命や財産・権利を守るための行動ができるのは自分しかいない、神の愛を伝えられるのは自分しかいないという状況に出会うかもしれません。その時、結果や自分の負うリスクに気を取られると、神から委ねられた役割を全うできません。「私がここにいるのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。」神の摂理と確信したとき、私たちは「結果は神の領域だという安心」と「全うできるから神はここに私を備えたという押し出す力」が与えられるのです。

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